【SF短編小説】量子の少年と感情の方程式 ~透明な瞳が映す無限の未来~(約10,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:静かすぎる少年

 その少年は、


 僕、高槻たかつきわたるの二十八年の人生で、これほどまでに感情の波を感じさせない子供に会ったのは初めてだった。


 児童相談所のソーシャルワーカーという仕事柄、僕はこれまで様々な心に傷を負った子供たちと向き合ってきた。怒りを爆発させる子、殻に閉じこもる子、過剰に明るく振る舞う子。彼らの行動は千差万別だった。だが、その根底には、いつも親を失った悲しみや未来への不安という、子供らしい剥き出しの感情の熱があった。


 しかし、彼には、それが全くなかった。


 少年の名は、海音かいと。十歳。一ヶ月前、高速道路での多重衝突事故で両親を同時に亡くした。彼は後部座席で奇跡的にほぼ無傷で発見された。以来、この海辺の街にある児童養護施設で保護されている。


 彼の担当になった僕が初めて面談室で彼に会った日。


 彼はただ窓の外をじっと見つめていた。その横顔はまるで精巧なガラス細工のようだった。色素の薄い髪、通った鼻筋、そして長い睫毛に縁取られた大きな瞳。だが、その瞳には何の色も映っていなかった。喜びも、悲しみも、怒りさえも。ただ空っぽの、どこまでも透明なガラス玉のようだった。


「海音くん、こんにちは。僕、今日から君の担当になった、高槻です」


 彼は僕の方を見なかった。

 ただ窓の外の灰色の海を見つめたまま、小さな声で呟いた。


「……こんにちは」


 それだけだった。


 事故のショックによるPTSD。

 あるいは失感情症アレキシサイミア

 臨床心理士はそう診断した。

 だが僕には、思えてならなかった。


 彼の静けさは感情を失った者のそれとはどこか異質だった。

 それは絶望の果ての静寂ではない。

 まるでこの世界の全ての喧騒を遥か高みから見下ろしているかのような絶対的な静寂。


 十歳の少年が持つにはあまりにも不釣り合いな、賢者のような静けさだった。


 僕はまだ知らなかった。


 彼のその透明な瞳が、僕たちの見ているこの世界とは全く違う次元の風景を映し出しているということを。そして、この出会いが僕の平凡な日常を根底から覆す壮大な物語の始まりであったということを。

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