森の影を背に

強行軍を続けた一行は、夜明け前にようやく足を止めた。


森の空気はひどく重たく、湿った葉の匂いが鼻腔に絡みつく。


吐く息すら湿り気を帯び、肺の奥にまとわりつくようで、休息のはずなのに息苦しさだけが募っていった。


足元には、かすかに馬車の轍が残っている。


だがそれは泥に沈み、幾度も雨に流されて、もはや道というより“残滓”に近い。


両脇の木々は鬱蒼と枝を伸ばし、闇の中で何かが潜んでいるとしか思えなかった。


「交代で見張りを立てましょう。まだ気は抜かない方がいいわよ」


サリオンが腰に手を当て、半ば冗談めかした調子で告げる。


だがその声音の裏には、ひりつくような緊張が滲んでいた。


その目は、ただの警戒ではない。全身で何かを感じ取ろうとする鋭さが漂っていた。微細な気配や音を捉え、ひとときも油断しない彼の姿勢が仲間にも明らかだった。


「……ちっ、俺はもう我慢ならんぞ」


グランは大剣の柄を握り締め、荒い息を吐きながら木々の闇を睨んでいる。


今にも飛び出しかねないその姿に、空気は一層きな臭くなった。


サリオンは仲間を見回しながら、視線を森の奥へと向ける。


夜陰に潜む気配は、掴めない。だが、肌を撫でるような違和感だけは、未だそこに居座っていた。まるで見えない何かが、常に自分たちを監視しているかのような不安感。


「……あいつら、本当にペンダントだけを狙ってるのかしら?」


囁くようなその問いが、場の空気を凍らせる。


沈黙が続き、重くなる。


その中で、セトがようやく口を開く。


「……じゃあ、僕らも?」


小さな声。だがそれは鋭い棘となって胸に刺さる。


グランは苛立ちをあらわに「ふざけるな」と低く唸り、


ミラは思わず馬を撫でて小さく祈るように呟いた。「大丈夫…」


その沈黙の中で、グラフがようやく口を開く。


「……だからこそ、慎重に進むしかない」


短い言葉だったが、低く落ち着いた響きは皆の胸に重く沈んだ。


ミラはなおも馬を撫で続けていた。落ち着かない鼻息、土を掻く蹄。


だが彼女の掌が毛並みに触れるたび、馬の肩はわずかに震えを収める。


緊張に満ちた空気の中で、その仕草だけが不思議と穏やかだった。


──そのとき。


アマンダの耳の奥を、氷のような声が刺した。


「……契約は……なぜ、なされぬ……」


聞こえるはずのない囁きに、胸がずきりと軋む。


前に聞いたのは──“生贄”という言葉だった。


なのに、今は“契約”。


契約……? 生贄……?


どちらが本当なのか、それとも両方なのか。


思い出すだけで喉が乾き、心臓を握り潰されるような感覚に襲われる。


狙われているのはペンダントなのか。仲間全員なのか。


それとも──自分ひとりなのか。


答えのない疑問が渦を巻き、アマンダは唇を噛んだ。


押し殺した息が熱を帯びて震える。


誰にも言えない不安が、じわじわと心を侵食していく。


やがて、森の向こうから白んだ光が差し始めた。夜明けが近い。


一行は短い休息を終え、再び歩みを進めることを選んだ。


アマンダは馬上で顔を伏せる。胸に巣食った囁きを、仲間に気づかれぬよう押し隠すために。


その横で、ミラが優しく馬の首を撫で続けていた。


小さな掌が、ただ馬を安心させるためだけに。

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