第5話

「ありがとう、お兄ちゃん」

 正美は慎太郎の肩を叩きながら礼を言うと、ドアを開けて外に出た。

「助かったよ、慎太郎さん。本当にありがとう」

 花織も礼を言いながらドアの取っ手に手を伸ばした。そのとき、花織は運転席のドアミラーに映っている慎太郎の顔が目に入った。

「どうしたの?」

 ドアミラーに映っていた慎太郎の顔は渋面だった。言いたいことがあるけどどう言えばいいのかわからない。そんな虚ろな表情をしていた。

「う、うん、あのな花織ちゃん。実は……」

 ハンドルを人差し指で叩きながら慎太郎がゆっくりと口を開いた。花織は慎太郎の次の言葉を黙って待った。すると、

「ほらほら、花織ちゃん! 早く行こうよ!」

 いきなり花織が座っていた側のドアが勢いよく開かれた。腰に手を当てて堂々と仁王立ちしている正美がそこにはいた。

「あ、ううん。でもちょっと待って」

 花織は正美から再び慎太郎に視線を向けた。

「それで、慎太郎さん。何か言いかけてたけどいったい何の話?」

「え? い、いや、大したことじゃないんだ。ほら、もう行きなさい」

 花織は変に思いながらも慎太郎に促されるまま車から降りた。慎太郎は二人に手を振りながら勤務している釜田警察署に向かって車を発進させた。あっという間に黒のゴルフは他の車に紛れて離れていく。

 慎太郎は何の話をしたかったのだろう。花織は呆然と慎太郎が向かった先を見続けていると、ふと正美にギュッと手を握られた。そのまま正美は、花織の手を引きながら元気よく歩き出す。

「お兄ちゃんと何を話してたの?」

「さあね。それを聞く前に行っちゃったから」

 仲良く手を繋ぎながら会話をしていた二人は、綺麗にコンクリートで舗装された歩道を歩いていく。今日は雲一つない快晴である。五月特有の乾いたような風が心地よい。 

 しかし歩き出したから数分、二人は歩みを止めた。いや、厳密に言うと止めたのは花織である。正美はつられて止まったに過ぎなかった。

 花織たちから距離にして数十メートル先には、通っている県立竹ヶ峰学園の外観が見えていた。生徒数約五百人。積極的にクラブ活動に力を入れており、体育館が二つあるのが特徴であった。だがそれ以外は他の高校と変わらない。別に進学校でもないため、学力も県全体から見ると中の下という辺りである。

 そんな平凡な県立高校の校門前には、一台の車が停車していた。

 そこら辺を走行している乗用車ではない。傷汚れ一つないほど細かに磨き抜かれた乳白色の外装。後部座席部分の全長は伸ばされ、その分補助座席が追加されて乗車定員を増やせる仕様になっている。そんな内装にはテレビモニターや冷蔵庫などが設置され、それこそキャンピングカー顔負けの設備が整えられていただろう。

 リムジンである。それも最も格式が高いと言われているリンカーンであった。太陽の陽射しを浴びて近寄りがたいオーラを煌々と放っている。

 周囲にいた生徒たちのみならず、スーツを着たサラリーマンたちも歩きながらリムジンに注目している。日本では交通事情からかリムジンの姿など滅多に見られない。注目するのは当然といえば当然であった。

 ガチャッとリムジンのドアが開かれた。出てきたのはビシッとしたスーツを身に纏った運転手である。運転手は急いで反対側に周り、ゆっくりとドアを開けた。

 周囲から黄色い歓声が沸き起こった。竹ヶ峰学園の生徒だけでなく、道行く会社員や中学生も思わずその場に立ち止まり、恍惚の表情を浮かべながらリムジンから出てきた人間にちらちらと視線を向けている。もちろん、全員女子である。

 だが花織だけは違った。憂鬱な表情でうな垂れている。

 リムジンから出てきた人物は十六か十七歳の少年であった。軽くシャギーがかかっている髪は陽光を浴びて黒曜石のように艶やかな光沢を放ち、顔の輪郭などは女性のように細くてシャープであった。また、顔の中に収まっているパーツはどれをとっても完璧と言っていいほど整えられている。

 流れるような切れ長の眉に整った目鼻立ち。肌はそっと触っただけでも色が付いてしまうくらい白く、女性の母性本能を刺激する瞳はどこまでも澄んでいる。

 体型もすらりとした長身で、竹ヶ峰学園指定のブレザー制服を着用していた。

 そしてもう一人、少年に続いてリムジンの中から現れた人物がいた。周囲から黄色い歓声が沸き起こった。今度は男性陣からである。

 日本人形のような流麗な黒髪を風になびかせ、身体にはワイン色のスーツドレスを着用していた二十代後半らしき女性。少年よりも背丈が高く、プロポーションなどは同年代の女性は裸足で逃げ出すほど抜群であった。二等辺三角形のような眼鏡をかけており、女性は優雅に中指一本で眼鏡の体裁を整える。その仕草が男性たちにとっては拝みたくなるほど神々しく見えていたに違いない。現に校門前にいた男子生徒数人は両手を擦り合わせて拝んでいる。

 少年は女性をお供に花織たちに近づいてきた。少年は約三メートル手前でピタリと止まると、花織だけを真剣に見つめた。

「おはようございます、大道寺のお坊ちゃま。当番でもクラブ活動もないのに今日はどうしてこんな朝早くから登校しているんですか?」

 思いっきり皮肉と険を込めた声で花織は挨拶をした。少年は瞳を常に潤ませ、下品にならない絶妙な位置まで口元を開いて微笑む。

「昨日、君を監視させている諜報員から連絡があってね。それによると今日から君は当番で朝が早いというじゃないか。その報告を受けた僕は、早速学園近くにあるロイヤル・シティ・ホテルの最上階のペントハウスを一週間借り切り、すぐに学園に向かえるように準備した。一泊四十万の安部屋だったけどこの際仕方ない。君に朝一番で出会うためだったら安いものだ。ねえ、睦月さん」

 少年は顔を後方にちらりと向けた。睦月と呼ばれた女性は軽く首肯する。

 一方、花織は頭を抱えた。正直、頭が痛くなってきた。

 大道寺勇二。綾園市を中心にホテル業、不動産業、観光業、飲食業、IT産業など幅広い分野に根を伸ばし、現在では貿易業や海外の企業を買収して自動車産業などにも力を入れている巨大企業「大道寺コーポレーション」の跡取り息子である。

 周囲は固唾を呑んで状況を見守っている。道路では忙しなく車が行き交っているというのに、花織を中心に半径十数メートルの空間は時が止まったように静かだった。たまに自転車に乗った学生たちが通るが、その場の異様な雰囲気に気づくと恐れるように避けて通っていく。

 時間にして数十秒後、花織の口が動いた。

「延々と自慢話をしてくれてありがとう勇二……でもね」

 花織は、勇二に負けないくらいの微笑を向けながら右手をすっと差し出した。

「ん? 何だい?」

 勇二は花織が取った行動に少し戸惑ったが、それでも空中で静止している花織の手を握ろうと勇二も右手を差し出した。

 次の瞬間、花織の瞳が異様な輝きを帯びた。

 花織は右斜め前方に一歩だけ移動すると、勇二が差し出してきた右手を左手でしっかりと摑んだ。それだけではない。花織は勇二の手を摑みながら左足で勇二の左膝に関節蹴りを見舞うと、勇二は大きく体制を崩され前のめりの状態になった。

 すかさず花織は手を摑んだまま勇二の背後に回った。そして右手を勇二の顎に引っ掛けるように抱え込むと、最後の詰めに入った。

 花織は右足底で勇二の左膝裏を蹴りこみながら、かけていた右手を右後方へ捻りながら一気に投げ放った。その瞬間、花織自身も後方に動いたため勇二は背中からコンクリートの地面に激突する形になった。

 周囲からは悲鳴が沸き起こった。当然である。ファッション雑誌の表紙を飾れるほどの美少年が瞬きするほどの一瞬で地面に叩きつけられたのだ。だが花織が取った動作があまりにも速かったため、周囲にいた人間たちは正確には目視できなかった。

 独特の緊張感に包まれ始めた歩道。その中で勇二だけが地面の上でくねくねと蓑虫のように身を動かして悶絶している。花織はそんな勇二を冷めた目で見下ろして一言、

「このボケエェェェェ――――ッ!」

 と腹の底から飛ぶ鳥を無理やり落とすような怒声を発した。

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