第4話 逃避、輪郭

翌朝、昇降口の時計は七時四十三分。

昨日より少し早く着いたのに、紗耶はもう靴箱の前にいた。

白いシュシュで髪をまとめ、指先で結び目を確かめている。俺に気づくと、いつもの温度で笑った。


「おはよう、悠真」

「おはよう、紗耶。今日のお願いは?」

「せっかち。……うん、今日はちょっと難しいかも」


言い淀んだ彼女の視線の先。廊下の角から、元カノの千景がこちらを見ていた。

目が合ったとき、彼女は一瞬だけ微笑む。あの“知ってるよ”の笑みだ。


「千景さん、だよね」

「……ああ」

「今日のお願いは――彼女を避けて」


思わず言葉が止まる。

宿題を手伝え、でもない。放課後どこかに行こう、でもない。

“避ける”。ただそれだけが、妙に重かった。


「理由、聞いてもいい?」

「うん。……でも、今はやめとく。言葉にすると、たぶん色が変わるから」

「色?」

「うん。説明すると、私の中で別の意味に変わっちゃうこと、あるでしょ」


彼女は靴箱の扉をそっと閉じ、早足で教室へ向かう。

朝の廊下は靴音が響きやすく、二人のリズムがぴたりと合う。

背中に千景の視線を感じながら、俺は何度も振り返りたくなる衝動を飲み込んだ。


 ***


一限、二限。ノートを取っても字が踊る。

窓からの光は真昼の白に近く、黒板のチョークが粉雪みたいに舞う。

休み時間が来るたび、千景は机を立ってこちらに来ようとする――そのたびに、別の女子が話し掛けて足止めする。偶然に見えて、意志的な何かの流れ。


昼休み。

購買の列から戻ると、紗耶が俺の席の角に腰をかけ、机に肘を置いていた。


「今日もパンと牛乳?」

「安定の組み合わせ」

「いいね。――で、お願いの続き」


彼女は声量を落として、俺だけに届く高さで言う。


「千景さんが来ても、目を合わせないで。返事もしない。席を立って窓のほうを見て。……それだけ」

「徹底してるな」

「うん。今日は“私のターン”だから」


パンをかじった瞬間、机の影が伸びた。

千景が立っていた。

短く切った前髪の影に、昔よく見たまっすぐな瞳。


「悠真、ちょっといい?」


反射的に顔が上がりかける――が、紗耶の視線が先に届く。

目を合わせない。返事をしない。窓のほうへ、立つ。


「……ごめん、今、用事が」


喉の奥に乗った言葉を、俺は紙片みたいに丸めて飲み込んだ。

窓の光は白い。グラウンドの校庭が、夏の熱でゆらいでいる。


背後で、千景の息がわずかに揺れた。


「そう。――後で、ね」

 

彼女は踵を返す。

足音は強くも弱くもない、計算された歩幅。

俺は指先に残るパン屑を払って、椅子に戻った。


「ありがとう」

 

紗耶は囁く。

ほっとした色が声に混じる。


「助かった」

「これでよかったのか?」

「今日は、ね」


“今日は”。その一語が、明確に区切りを描く。

明日は違う、という予告。


 ***


五限目の前。

水分補給のために廊下の自販機へ行くと、背後で呼び止められた。


「……悠真」


千景だった。周囲に人影はなく、階段の踊り場から風が抜ける。


「さっきの、わざとでしょ」

「……何が」

「目を合わせなかったこと。あなた、そんな不器用じゃない」


直球だった。

言い返そうとした舌の上に、別の言葉が浮かぶ。“ゲーム”。“お願い”。“約束”。

それらを重ねた結果、出てきたのは曖昧な音だけだった。


「ごめん。今は――」

「“今は”で逃げるなら、後で時間作って」

 

千景はペットボトルのキャップをくるりと回す。


「水城さん、面白い子だね。転校初日からあなたの隣、校舎裏、理科準備室」


最後の単語で、心臓がひとつ跳ねた。


「……見てたのか」

「見たというか、知ってるというか。噂は速い。――それと」


千景は一歩近づく。


「前の学校での水城さんのこと、ちょっとだけ耳に入った」


その瞬間、風が斜めに吹いて、廊下の掲示がぱたぱたと鳴った。

俺は息を飲む。


「何を、聞いた」

「全部じゃない。だから、あなたに確かめに来た。でも――」


千景は言葉を切り、視線を俺の肩越しに滑らせた。

そこに、紗耶が立っていた。

彼女は笑っていた。

けれど、その笑みは周囲向けに整えた笑顔。


「先生が呼んでるよ、結城くん」

 

空気が、薄くなる。


「また後でね、悠真」

 

千景は軽く手を挙げて去っていく。

紗耶は一歩だけ近づき、俺の袖を指でつまんだ。


「――ありがと」

 

声は小さい。そこにほんの少し、震えがあった。


 ***


放課後。

教室の片付けを終えたとき、窓ガラスに薄い影が走った。

遠雷。空の端に、鉛の線が引かれている。


「明日、雨かも」

 

紗耶が言う。


「天気アプリ?」

「ううん、匂い」

 

彼女は深く息を吸い、目を細めた。


「明日はね、傘に入れて。それがお願い」

「了解。……それなら、避けるとかじゃなくて済むな」

「ううん。明日も、誰かを避けてほしい」

 

続く言葉に、心臓が再び小さく跳ねる。


「誰を?」

「明日になったら言う。今日は、ここまで」


俺たちは並んで廊下を歩く。

階段を下りるたび、窓の外の空が濃くなる。

玄関を出るころには、雷の音がもう少し近くなっていた。


駅までの坂道で、紗耶がふいに足を止めた。


「さっきは、ありがと。本当に」

「礼を言われるようなこと、してない」

「してるよ。私にとっては、ね」


彼女はポケットから小さな紙片を取り出す。

白い、写真屋の引換券。


「この前のフィルム、もう出した」

「現像、早」

「ね。――できあがっても、見せないけど」

「知ってる」


二人で笑った。

その笑いが消える前に、風が湿って、遠くの空から最初の一滴が落ちてきた。


翌朝――。

予報通りの雨。駅前のロータリーには、傘の花がいくつも咲いていた。

七時四十五分。俺は透明なビニール傘を少し傾けて、待つ。

やがて、紗耶が走ってくる。

薄いカーディガンが雨を含んで、色が濃くなる。


「おはよう、悠真。入れて」

肩が触れる距離。雨粒が、傘の天井で細かく踊る。


「――で、今日は誰を避ける?」


そう尋ねると、紗耶は傘の内側で声を落とした。


「先生」


雨音が、一段、強くなった。

ゲームは、また違う手触りを帯び始める。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る