第3話 理科準備室でカシャリと音が鳴る
「今日のお願いはね――理科準備室に来て」
放課後、チャイムが鳴り終わる前に紗耶はそう言った。
机の中からスッと鞄を取り出す動作に、ためらいはない。
昨日や一昨日のお願いとは違う種類の、ちょっとした緊張感があった。
「なんで理科準備室?」
「行けばわかる」
「ホラーじゃないよな?」
「幽霊が出るって話は聞いたけど」
「やめろ」
笑っているのか、本気なのかわからない。
けれど彼女の歩調は早く、俺は急ぎ足でついていった。
***
理科室の奥にある準備室は、午後の日差しが届かない。
棚には薬品瓶や古い標本箱が並び、空気は少しひんやりしている。
窓際には、ほこりをかぶった顕微鏡。壁際には骨格標本が立っている。
中学のころ理科準備室に入ったときと同じ、独特の匂いが鼻をくすぐった。
「はい、入って」
紗耶は部屋の中央を指差す。
「なんだよ、まさかここで勉強とか?」
「違うよ。これ」
彼女が鞄から取り出したのは、小さなフィルムカメラだった。
黒いボディに銀色の縁。デジカメでもスマホでもない、昔ながらのカメラ。
「これで、悠真を撮る」
「……俺を?」
「そう。お願いだから」
シャッターを切る音が、準備室の静けさにやけに大きく響いた。
カシャン、と機械的で、懐かしい音。
フラッシュはたかない。窓から差し込む薄い光だけが、俺の輪郭を拾っていく。
「なんで俺?」
「昨日も言ったけど、光を見てたから」
「またそれ?」
「うん。……光の中にいるときの顔、きれいだったから」
不意を突かれて、言葉が詰まる。
からかっているようには見えない。
カメラを構える手は真剣で、瞳はレンズ越しにまっすぐ俺を捉えていた。
「笑って」
「無理」
「じゃあ、そのままで」
もう一度、カシャン。
それから彼女はカメラを下ろし、フィルムの巻き上げレバーを回した。
その動作が妙に丁寧で、見ていると胸の奥がくすぐったくなる。
「これ、現像したら見せるのか?」
「ううん、見せない」
「は?」
「私だけのものにする」
そう言って、紗耶は笑った。
その笑顔が、少しだけ切なく見えたのは気のせいだろうか。
***
準備室を出るとき、ふと棚の上に置かれた埃まみれのアルバムが目に入った。
古びた表紙には「三十年前」と手書きのラベル。
開くと、白黒の集合写真や文化祭のスナップが並んでいる。
その中の一枚――夏の校庭で撮られた写真に、俺は目を奪われた。
長い髪の女子生徒が、笑いながら手を振っている。
どことなく、紗耶に似ている気がした。
「誰?」
思わず声に出すと、紗耶は肩越しにちらりと覗き込み、無表情に答えた。
「……知らない。でも、いい笑顔だね」
そう言ってアルバムを閉じ、棚に戻した。
その横顔は、写真に映る人物と重なったまま、しばらく俺の頭から離れなかった。
***
帰り道、駅までの坂を下る途中で、紗耶が不意に口を開いた。
「明日のお願い、もう決めてる」
「早くない?」
「明日からは、ちょっとだけ変えていくから」
「変えるって、何を」
「秘密」
いつも通りの笑顔。
でも、その奥に何かが潜んでいる。
夕方の光が彼女の輪郭をオレンジ色に染め、影が長く伸びていく。
俺は結局、その“変化”の意味を聞けないまま駅に着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます