第5話 雨音、曇り空にて

「先生?」

 

傘の内側で反響した自分の声が、やけに近く感じた。

紗耶は頷き、滴を払うように前髪を指で整える。


「今日のお願いは二つ。ひとつは“傘に入れて”。もうひとつは“先生を避ける”」

「……どの先生?」

「二年の学年主任。佐伯先生」

 

名字を聞くだけで、厳しい顔と鋭い視線が脳裏に浮かんだ。

生活指導で何度か捕まったことのある教師だ。


「なんで佐伯を?」

「理由は、まだ言えない」

「またそれか」

「ごめん。でも、ちゃんと意味はあるから」


傘の中の距離は近いのに、その言葉はどこか遠く感じた。


 ***


校門をくぐると、佐伯の姿が見えた。

傘も差さずに濡れたスーツのまま、通る生徒一人ひとりに声をかけている。

服装や頭髪のチェックだ。いつもの光景――のはずなのに、今日は紗耶の肩がわずかに強張っているのがわかる。


「こっち」

 

彼女は俺の袖を軽く引き、校舎裏へ続く脇道に逸れた。

雨水がアスファルトを薄く覆い、靴底がしぶきを跳ね上げる。

曲がり角で一瞬、佐伯と目が合った――気がしたが、すぐに視界から消えた。


「……これで避けたことになる?」

「うん。助かった」

 

紗耶は短く息を吐く。

その吐息に混じる安堵が、妙に生々しく胸に残った。


 ***


午前の授業は雨音をBGMに進んだ。

窓ガラスを叩く水滴が、時々強くなって教室の空気を濡らす。

紗耶は黒板を見ているふりをしながら、視線を窓の外に置いたままだ。

ノートに走るペンの音も、やけに速い。


休み時間、俺は机を寄せて小声で尋ねた。


「佐伯と何かあったのか」

「……前の学校で、少し」

「少し?」

「うん。詳しくは、まだ」


“まだ”――その言葉が何度目なのか、もう数えられない。


 ***


昼休み。

購買は雨の日特有の混雑で、列が廊下まで伸びていた。

俺が教室に戻ると、紗耶は自分の席ではなく、窓際の俺の席に腰を掛けていた。

傘を立てかけ、制服の袖口をハンカチで拭いている。


「悠真、午後は傘持って部活棟まで来て」

「部活棟? 何しに」

「美術部の展示を見たいの。お願いじゃないけど、付き合って」

「……まあ、いいけど」


午後の授業を終え、二人で部活棟へ向かう。

廊下の窓から見えるグラウンドは水たまりだらけで、部活はほとんど中止らしい。

美術室の前で、傘を閉じた瞬間――背後から低い声が飛んできた。


「水城。ちょっといいか」

 

佐伯だった。

近くで見ると、濡れたスーツが体に張り付き、冷気をまとったような圧力がある。

紗耶の肩がぴくりと動く。


「用事があるので」

 

俺が間に入ると、佐伯の目が俺に移った。

深く刻まれた眉間の皺が、雨より冷たい。


「結城、お前は関係ない。――水城、話はすぐ終わる」

「……ごめんなさい。今日は無理です」

 

紗耶は俯いたまま、一歩だけ俺の背後に下がった。

佐伯は何かを言いかけたが、やがて舌打ちをひとつ残して廊下を去った。

残ったのは雨音と、紗耶の浅い呼吸。


「……助かった」

「さっきのが本当の“避ける”ってやつ?」

「うん。ありがとう」


 ***


放課後。

雨は小降りになり、灰色の雲の隙間から夕焼けがのぞいていた。

駅までの道、傘はもう不要で、二人の影が濡れた路面に伸びている。


「今日のこと、いつか話してくれる?」

「うん。ちゃんと、いつか」

「それ、“いつか”って逃げじゃないよな」

「逃げじゃないよ」

 

彼女は少し笑ったが、その笑顔はほんの短い時間だけだった。


改札前で別れ際、紗耶がポケットから小さな紙切れを出した。

それは昨日のと似た、写真屋の引換券。


「これ、今日撮ったやつ?」

「ううん。前に撮った。……でも、受け取るのは最後の日にする」

「最後の日?」

「うん。ゲームの、ね」


そう言い残して、彼女は人混みに紛れていった。

俺の手の中には、湿った紙の感触だけが残っていた。

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