第22話 黒魔術と白魔術

 旅館に着くと早速、僕は伊勢谷くんを引き連れて、由衣の部屋へと向かった。

「はい?」部屋のドアをノックすると、訝しむような由衣の声が返ってきた。

「こんにちは。鳴瀬です。覚えているかな? 先日、きみの小説を読ませてもらった」

「こんにちは」

 突然ドアが開き、由衣が顔を出した。その表情を見る限りでは、事件のショックはそれほど受けていないようだけれど、目だけが少しおかしい。誰かに催眠術でもかけられたかのように、夢うつつといった様子に見えた。

「警部さんに呼ばれてね、さっきこっちに着いたんだよ。こちら、僕の友人の伊勢谷くん」

「伊勢谷恭介です」伊勢谷くんは、慎ましやかな微笑をつくる。

「江神由衣です」人見知りのためか、由衣は少し警戒心を見せた。

「調子はどう? きみのことが心配でね」僕はそう言いながら、部屋の中にさりげなく視線を送った。

 丸テーブルの上には湯のみと、『黒魔術・白魔術大辞典』という、ぶ厚い本が載っていた。伊勢谷くんもそれに気づいたらしい。

「おもしろそうな本を読んでいるんだね」と指差す。

「はい」

「他にも本がたくさんある。ずいぶん、読書家なんだね」本棚のほうに目をやり、伊勢谷くんは感心した様子だ。

「はい」褒められて、由衣は少し照れた表情を浮かべる。伊勢谷くんに心を開いてきたようだ。

「ちょっと見せてもらってもいいかな」

「どうぞ」由衣は、伊勢谷くんが部屋の中に入れるように、車椅子をバックさせた。

「錬金術、魔法、占星術。興味深い本ばかりだ」伊勢谷くんは本棚の前に立ち、背表紙に視線を走らせていく。

「錬金術といえば、こんな夢を見たよ」

 僕は新幹線の中で見た、伊勢谷くんが魔女に扮した夢の内容を話した。その話を聞き終えた伊勢谷くんと由衣は、楽しそうに笑った。

「僕が魔女だなんてね。だけど鳴瀬くん。化学は元々、錬金術から派生した学問だからね。僕が魔法のエリクシールを精製するとうイメージがきみの夢に出てきたのも、あながち間違いではないのかもしれないね」伊勢谷くんがそう言うと、由衣が不思議そうな表情を浮かべた。

「彼は化学者なんだ」僕は由衣に説明した。由衣は得心顔で微笑む。

「黒魔術と白魔術か。ちょっと見せてもらってもいいかな」伊勢谷くんはそう訊くだけ訊いて、由衣の返事も待たず、丸テーブルの上に置いてある本を勝手に手に取って開いた。すると、ページの間から栞が落ちた。

「申し訳ない。どこに挟んであったのかな」伊勢谷くんは、本と栞を由衣に手渡した。

 由衣は本を開くと、栞を挟んですぐに閉じてしまった。けれど一瞬、そのページの見出しが僕の目に入った。そこには確かに『死者を蘇らせる魔術』と書かれてあった。

 ふと視線を感じて顔を上げると、伊勢谷くんが僕を見て微笑んでいた。と思ったら、伊勢谷くんは急に眉間に皺を寄せ、何かの匂いを嗅ぐように鼻をクンクンひくつかせ始めた。僕も真似してみると、湯呑からお香のようなニオイが漂っていることに気づいた。

「このお茶は?」伊勢谷くんは湯呑の中身を覗き込む。

「不安を抑えてくれる漢方薬が入っているんです」由衣は湯呑を両手で大切に包み込むように手に持った。

「漢方ね。誰が処方してくれたんだい?」伊勢谷くんは何だかやたらに、そのお茶に関心を示す。

「永井さんです」

「ああ、なるほど」伊勢谷くんは由衣が膝の上に載せている『黒魔術・白魔術大辞典』に視線を移すと、「死者を蘇らせる魔術、か。そんな魔術が本当にあったら、この地球は人口過多ですぐに滅亡してしまうだろうね」呆れたように呟くと、由衣は俯いてしまう。

「伊勢谷くん」僕は窘めた。けれど、伊勢谷くんは意に介さず、口元には意地の悪い微笑すら浮かべている。

「死者を蘇らせようとするなんて、神への冒涜だ。思い上がりも甚だしいね」

「……って、下さい」由衣が何か呟いた。

「由衣ちゃん?」心配になって、僕は由衣の顔を覗き込んだ。

「きみにとって、お母さんが大切な存在だったということはわかる。でも、誰にでも死は訪れる。残された人間は、その現実を受け入れなければいけないんだよ」伊勢谷くんは、急に厳かな口調で言った。その伊勢谷くんの顔を、由衣は青ざめた表情で見つめ返し、

「出てって下さい!」部屋の外まで聞こえるような大きな声で叫んだ。

「由衣ちゃん、この男は悪気があって言っているんじゃないんだ。ほら、伊勢谷くん、とりあえず謝って」

「何を?」伊勢谷くんはおとぼけ顔をしてみせる。

「いいから、出てってください!」由衣は、僕と伊勢谷くんをドアのほうへと追い立てるように、車椅子を前進させた。

「由衣ちゃん、ごめんね」部屋から閉めだされた僕は頭を下げた。由衣は何も言わず、伊勢谷くんを冷たい目で見つめながら、ドアを閉めてしまった。

「やれやれ、だね」伊勢谷くんは、どこ吹く風とばかりに、呑気な口調で言う。

「何がやれやれだ。嫌われちゃったじゃないか。一体、きみは何であんなこと」

「何でかって? 少しは考えてみたらどうだい。僕は何も、あの子に意地悪がしたくてあんなことを言ったわけじゃないさ」

「まさか、いや、そんな……」墓が荒らされていたのと、何か関係があるというのか?

「鳴瀬くん、きみはもう少し冷静になったほうがいいね。そして、現実をしっかりと見つめるべきだよ」

「うるさい」伊勢谷くんの冷静な口調が癪に障って、つい声を荒げてしまった。

「あの、どうかしました?」玄関のほうから歩美が走ってきて、不安げな顔を覗かせた。

「い、いや、何でもないよ」僕は歩美を安心させるために笑顔を取り繕う。

「由衣ちゃんの声が聞こえてきたから、てっきり」歩美はそこで口を噤む。何だか様子がおかしい。

「てっきり、どうかした?」僕は歩美に一歩近づいた。

「はい。あの、大旦那様に変な手紙が」

「変な手紙? もしや……」僕は伊勢谷くんの顔を見た。伊勢谷くんは、僕に頷き返し、

「行こう」章造の部屋へ足を向けた。

 部屋の中には章造以外、誰もいなかった。

「また、魔女の末裔から手紙が届いたそうですね」

 布団の上にあぐらをかいて、手紙の文面に目を落としている章造に、僕は声をかけた。章造は驚いて顔を上げ、次の瞬間には咎めるような視線を歩美に送った。

「す、すいません」と歩美は恐縮する。

「内緒にする必要はないですよ。警察にも知らせましょう」僕はそう言うと、歩美を無理矢理部屋から出して、旅館の居間にいる警察に伝えるよう命じた。

「見せて頂けませんか」布団の傍らで中腰になり、伊勢谷くんは章造に手を差し出す。

「だ、誰かのイタズラに決まっている。こんなもの本気にしていたら、神経がおかしくなる」章造は手紙を見せたくないのか、ぶつぶつと呟きながら手紙を懐にしまおうとする。

「イタズラではないですよ」伊勢谷くんは決めつけるように言うと、章造の隙を突いて手紙を取り上げてしまった。僕はその後ろに立ち、文面を覗き込んだ。


『復讐は、終わらない  魔女の末裔より』


「復讐は終わらない、か」伊勢谷くんは不謹慎にも、まるで犯人の挑戦をおもしろがるような微笑を見せた。

「どうした!」

 廊下から、耳障りな銅鑼声が響いてきたかと思ったら、鱒沢警部が顔を出した。いつの間にか、寺から戻ってきていたらしい。

「殺人予告状ですよ」

 鼻息荒く部屋の中に押し入ってくる鱒沢警部に、伊勢谷くんは手紙を差し出す。

「復讐は、終わらない、魔女の末裔? 何だ、これは? 誰がこんなタチの悪いイタズラを」事件が相次いで起こり、鱒沢警部は相当に気が立っているらしい。怒りのあまり手紙を破りそうになるのを、伊勢谷くんが取り上げた。

「イタズラじゃないですよ、警部殿」この期に及んで、伊勢谷くんは茶化すような口調で言った。

「何だと!」見事、火に油を注ぐ結果になり、鱒沢警部の怒号が響き渡る。

「け、警部さん。あまり大きな声は出さないでください」章造の容態を気づかって、歩美が困惑顔を向ける。

「す、すまん」鱒沢警部は一瞬狼狽してから、「イタズラじゃないとは、どういうことだ」?伊勢谷くんに食ってかかった。

「茜ちゃんが殺される前にも、同じような手紙が届いていたそうです」

「何だって? 本当ですか」咎めるような口調で、鱒沢警部は章造のほうへ顔を向ける。章造は黙って頷いた。

「そんな大事なことをなぜ?」鱒沢警部のこめかみに薄っすらと、血管が浮き出た。

「そんなことよりも、第二の犯行を食い止めるのが先決ではないですかね」伊勢谷くんが口を挟む。

「うるさい。大体、お前らは何をウロチョロしているんだ? さっさと部屋に戻って、大人しくしてろ」再び鱒沢警部の怒号が響き渡る。その耳障りな声に、章造が胸をおさえて苦しそうな表情を浮かべた。

「大旦那様」歩美が慌てて章造の傍らに膝まずき、介抱をする。

「病人の前ではお静かに」伊勢谷くんは鱒沢警部を窘めると、「その手紙を出した人間、つまり、あなたに復讐心を抱いている人間に、まったく心当たりはないのですか?」優しい口調で章造に問いかけた。

「お、おい、何で、お前がそんな質問をする権利がある」鱒沢警部が横やりを入れたけど、伊勢谷くんはちっとも意に介さず、章造をじっと見つめたままだ。

 章造は微かに首を振り、「本当に、わたしには何も、何も心当たりはない」独り言のように呟いた。けれど、その様子を見る限り、観察力のない僕ですら、何か隠し事をしているのは明白に思えた。

「あなたか、あるいはあなたのご家族の誰かが、殺人犯の犠牲者になるかもしれないのですよ」伊勢谷くんの口調は脅すようだった。

「そんなこと、俺がさせん」鱒沢警部が息巻く。

「わからん。本当にわからないのだよ」

 章造は虚ろな表情を浮かべながら呟いた。その瞬間、急に外が騒がしくなった。屋根を打つ大粒の、そして大量の雨だった。外壁を圧する強風の音も聞こえてくる。

「どうやら、本格的に荒れてきそうですね」伊勢谷くんが、酷く暗示的な口調で呟く。

「そんなことよりも」鱒沢警部は僕と伊勢谷くんを睨みつけ、「部外者はさっさと出て行ってもらおうか」

 鱒沢警部から追い出しをくらい、僕らは自分たちの部屋に戻ることにした。

 旅館の居間を通り過ぎて階段をのぼろうとすると、土間口にびしょ濡れになった警官たちが姿を現した。さすがに、井戸の見張りは断念したらしい。

「さあ、チャンスだ」伊勢谷くんはうれしそうに微笑む。

「まさか、この雨の中、あそこへ行くつもりなのかい?」

「もちろん。気になることがあってね」

「もう少し経ってからにしたほうがいいよ。これ以上、あの鬼警部の機嫌を損ねたら、本当に逮捕されかねないからね」

「それは言えてるね。じゃあ、少し休もうかな。ここへ着いてから、いっぺんに色々なことが起こり過ぎてるものね」伊勢谷くんは階段をのぼりながら、あくびをした。僕もつられて、あくびをする。

 廊下で別れ、それぞれの部屋に入った。部屋に戻るなり、僕は畳の上に大の字になって、思い切り伸びをした。長距離の移動、墓荒らし騒動、三上の襲撃、そして江神章造への殺人予告状。確かに、色々なことが起こり過ぎている。少し睡眠を通ることにした。けれど、雨と風の音があまりにも激しくて、すぐには眠りにつけない。

 立ち上がり、窓に近づいて窓障子を開けた。視界がほとんど奪われてしまうほど、窓ガラスには大量の雨が降りかかっている。

 ……ん? 何か、ぼんやりと人影が見えたような気がした。

 窓ガラスを少しだけ開けて外を見た。呆れた。雨合羽を着込んだ伊勢谷くんが、ショルダーバッグを携帯して、巨大井戸へと近づいている。何が、少し休もうかな、だ。ただでさえ、鱒沢警部の心証は悪いのに、本当に逮捕されても知らないぞ、と僕は窓から離れて、再び畳の上に横になり、バッグから耳栓を取り出して耳にはめると、今度こそ眠りに就いた。

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