第18話 素人探偵
「まもなく――駅に到着です。座席を立つ際には、お忘れ物のないよう、網棚、椅子の下など、今一度お確かめ下さい」車内アナウンスが薄っすら聞こえてくる。
到着駅の名前が頭の中でリフレインする。……降りる駅じゃないか! 慌てて目を開けると、横にいる伊勢谷くんはアイマスクを着けて熟睡していた。
「伊勢谷くん、起きろ!」伊勢谷くんの身体を乱暴に揺すり、網棚から荷物を下ろす。
「うん?」伊勢谷くんはアイマスクを外し、眠そうな目で僕を見つめ返してくる。
「うん? じゃないよ。きみまで寝入ってしまったら、ダメじゃないか」
「思っていたよりも早く着いたね」窓の外を眺めながら、伊勢谷くんは呑気に言う。
「グズグズしてる場合じゃない。きみも早く降りる準備をして」まだ寝ぼけている伊勢谷くんを無理に引っ張り、僕は新幹線から降りた。
私鉄線に乗り換え、ホッと一安心して窓の外を眺めると、空は一面、厚い雲に覆われていた。風も強く、窓ガラスがガタガタと音を立てて揺れる。スマートフォンで岩手の天気予報を見ると、台風が接近しているということだった。何だか、不吉な予感が脳裏をよぎる。
「見渡す限り田園が広がる景色というものは、何だか心が穏やかな気持ちになるものだね。幼少時代に住んでいた、フランスの田舎を思い出すよ」伊勢谷くんは、懐古の情に満ちた口調で言う。
「幼少時代? そういえば、伊勢谷くんはどこの出身なんだい」
考えて見たら、出会ってから半年、僕ら二人の間にのぼる話題といったら推理小説のことばかりで、お互いのことをほとんど知らないことに、僕は今さらながら気づいた。
「出身?」伊勢谷くんは少し考え込み、「フランス、ドイツ、ベルギー、オランダ、アメリカ。父親の仕事の都合で、色々な国に移り住んでいたからね。どこの出身なのか、自分でもよくわからないなぁ」
「仕事の都合って、きみのお父さんは一体何をしてる人なのさ?」
「ファッション・デザイナー。今は引退して、化粧品会社の経営をしているよ。イセヤ・コスメティックスといってね。日本ではあまり知られてないけど、欧米ではそこそこ有名なブランドなんだ」
「へえ」何だか知らないけど、伊勢谷くんの家は金持ちらしい。「それじゃあなぜ、きみはあんなボロくて汚いアパートに住んでいるのさ?」
「生まれてからずっと海外で暮らしてきたせいか、古き良き日本の生活に憧れていてね。あのアパート、昭和の風情を感じるだろう?」
「確かに」と言うより、あのアパートだけ時代に取り残されている。
「あのアパートへ越してくる前は、鎌倉で一軒家を借りていたんだけど、大学院に通うとなるとやっぱり大変でね」
「なるほど。将来的には、親父さんの会社を継ぐのかい?」
「まさか」伊勢谷くんは一笑に付し、「僕が経営者に向いていると思うかい?」と笑う。
「うーん」確かに、伊勢谷くんはビジネスマンといった感じではない。スーツよりも、白衣を着て研究室にこもっているほうが似合いそうだ。
「僕は自分の好きなことをするだけさ。きみだってそうだろう? 小説家なんて、食べていけない職業の最たるものじゃないか。だけど、きみは、はっきり言って才能もないのに、ずっと書き続けている。それは小説を書くのが好きだからだろう?」
「まあ、そうだけど」才能がないと言うのは余計じゃないか、と内心ショックを受けつつ返事をする。
「僕はたまたま、大学時代に取った特許がアメリカの医薬品会社に売れて、お金の心配をせずに研究に打ち込むことができるけど、きみには貧乏にうちひしがれることなく、これからも志しを失わずに、頑張って作品を書き続けてもらいたいと思っている」
「あ、ありがとう」返事をしたものの、何だか腑に落ちない。大体、お金の心配もないくせに、わざわざあんな汚いアパートに住んでいるなんて、僕には嫌味にしか思えない。
「何よりもまず、推理小説を書くことだね」
また、それか。この男と一緒にいると、結局その話題になってしまう。
「堅牢不抜な密室、鉄壁なアリバイ、容疑者Xからの大胆不敵な殺人予告状、意外な犯人と動機、複雑に絡み合った糸をほぐすように、天才的な名探偵がすべての謎を解き明かす、カタルシスに満ちたラストシーン。考えただけでも、ワクワクするじゃないか!」
ん? 大胆不敵な殺人予告状だって?
「そういえば、きみに言ってなかったかもしれないけど」
「何を?」僕の顔を覗き込むようにして伊勢谷くんは訊く。
「実は、事件が発生する前、つまり茜ちゃんが井戸に落ちる前、茜ちゃんの祖父の江神章造に、謎の手紙が届いたんだ。今思えばあれは、容疑者Xからの殺人予告状だったんじゃないかな」
「殺人予告状だって? 一体なんて書かれていたんだい?」伊勢谷くんは少し興奮気味になる。
「復讐の時、きたれり 魔女の末裔より」僕はゆっくりと言い、「その一文だけだったけど、それを見た江神章造は心臓発作を起こして、病院へ運ばれたんだ」と続けた。
「何だって! きみは、どうしてそんな重要なことを、今まで秘密にしていたんだ」
「別に秘密にしていたわけじゃないよ。茜ちゃんが井戸に落ちたことがショック過ぎて、そのことばかり話してしまっただけだ」
「復讐の時、きたれり 魔女の末裔より、か」伊勢谷くんは放心状態で呟き、「悲劇はまだ続くのかもしれないね」と不吉な予言を口にした。
「何だって? それじゃあ、茜ちゃんが殺されたのは、ただの序章に過ぎないってこと?」
全身の毛が恐怖で逆だつのを感じながら、僕は伊勢谷くんを問い詰めた。伊勢谷くんは何も答えず、何かを考え込むような表情を浮かべて、そのまま押し黙ってしまった。
電車を降りてバスに乗り換えても、伊勢谷くんは相変わらず黙り込んだままだった。仕方がないからそっとしておいて、僕も静かに窓の外を眺めた。雨だけじゃなく風も強くなってきている。今夜あたり、台風が直撃するかもしれない。土砂崩れでも起こるのではないかと山肌を見つめ、僕は一人ゾッとした。
しばらくすると窓の外に、茜の死体が発見されたという、あの湖が見えてきた。一昨日見た時は、陽光を浴びて湖面がキラキラと光っていたけれど、今はただ暗鬱な景色が広がっている。
「伊勢谷くん、あの湖だよ」僕は、隣でムッツリと押し黙っている伊勢谷くんに声をかけた。
「ということは、朝霧村は?」
「あの山を越えた向こうだよ」湖と朝霧村を隔てる山を指差して僕は答えた。
「なるほど。かなり距離があるね」
「魔女の仕業だとしか説明のしようがないだろう?」
「いいや」伊勢谷くんはキッパリ否定すると、再びだんまりを決め込んでしまった。
バスが朝霧村へと入って行く。江神旅館の前には、マスコミ連中が集まっていた。パトカーの姿も見える。
「随分、高い所にあるもんだね」伊勢谷くんは上空を見ながら独り言を呟く。
「何が?」
「いや、何でもない」ごまかすように微笑み、「あれが、江神旅館だね」
「うん」
江神旅館前の停留所にバスが停まり、僕らは泥濘の上に降り立った。
台風が迫っているからか、マスコミ陣は撤収の準備を始めている。その間を通り抜け、江神旅館の玄関扉を開けようとした瞬間、中から鬼瓦、じゃなくて、鱒沢警部が顔を出した。
「こんにちは」僕は挨拶をして、伊勢谷くんを紹介した。
鱒沢は胡散臭そうな顔で伊勢谷くんを一瞥すると、
「まあ、中に入れ」相変わらずの横柄な態度で旅館の中に引っ込んだ。
「いかにも、田舎の刑事って感じだね」
伊勢谷くんは愉快そうに笑いながら、鱒沢警部の後に続いて旅館の中へ入って行く。僕もその後に続いた。
鱒沢が呼んだのか、奥から明恵が小走りで姿を現した。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
明恵は僕に会釈し、次に伊勢谷くんに視線を向けると、心なしか頬を赤らめた。こういう時、伊勢谷くんと一日だけでも容姿を交換できないものかと、僕は本気で思う。
「部屋に荷物を置いてきな。その後に訊きたいことがあるから、そこの居間に来てくれ」
鱒沢はまるで部下にするような口調で僕に言うと、居間へ上がって煙草を吸い始めた。
「お部屋にご案内します。どうぞ」
僕と伊勢谷くんは、明恵の後に続いて階段をのぼり、二階へ向かった。
「何だか、大変なことになっちゃいましたね」二階の廊下を歩きながら、僕は明恵に声をかけた。
「はい」明恵はかすれ声で返事をする。
「お爺さんの具合はどうです?」
「お陰様で、昨日、病院から戻ってきました。今、和尚さんがお見舞いに来てくれているんです」
「玄鶴和尚が? ぜひ、話したいことがあるんですけど」
「伝えておきます。さっき来たばかりなので、すぐには帰らないと思いますから、大丈夫ですよ」
「そうですか。よかった」
僕がそう言うのとほぼ同時、一番奥の部屋のドアが勢いよく開き、大きなクシャミをする声が聞こえてきた。そちらへ目を向けると、頭が禿げ上がり、腹の突き出た、脂ぎった中年男が、ヘラヘラと下卑た笑顔を浮かべ、鼻をかみながら出てきた。
「やや! お姉さん、ちょっと!」馴れ馴れしい口調で明恵に近づいてくる。
「は、はい。何でしょう?」明恵は、迷惑顔を何とか隠している。
「妹さんには、……ヘックション! いつ会わせてくれるんだい? そのために、……ヘックション! こっちはわざわざ東京から来たんだよ」
男はどうやら酷い花粉症もちらしく、しきりにくしゃみをした。そのたびに唾が飛んできて、不快でしょうがない。
「ですから、妹は今、誰とも会いたくないと」
「そこをさ、何とか会えるように取り計らってくれないかな? ……ヘックション! 頼むよ、ね?」
「何とか、と言われましても困ります」
「ほんの二、三分だけでいいから。……ヘックション! 頼むよ。じゃあ」中年男はそう言い終えると、踵を返して部屋へと戻ってしまった。
「誰ですか?」僕は不快感を隠すことなく、明恵に訊いた。
「ウダさんといって、東京にある芸能プロダクションの社長さんだそうです」明恵はそう言うと、『宇田明』と書かれた名刺を見せてくれた。
「芸能プロダクション?」
「はい。動画サイトで由衣を見て、スカウトしに来たそうです」
なるほど。ネット上であれだけ話題になっていれば、芸能関係者が動かないわけはない。
「何度もお断りしているんですけど、しつこくて」明恵はため息を漏らす。
「絶対に会わせちゃダメですよ」
「はい。山口さんのこともあるので、由衣には絶対に近づけさせません」
それを聞いて、僕は安心した。
「お泊りのお部屋は、こちらになります」明恵はそう言うと、先日僕が泊まった部屋のドアを開けた。
「魔女の井戸というのは?」部屋の中に入って荷物を下ろすなり、伊勢谷くんは早速、訊いてきた。
「窓から見えるよ」僕は窓の障子戸を開けた。
「なるほど。確かに巨大だね」伊勢谷くんは感心したように言う。巨大井戸の周りには、警官が何人か立っていた。
「お夜食は、何時になさいますか?」
「七時にお願いできますか」と僕。
「畏まりました。では、ごゆっくりどうぞ」明恵は軽く頭を下げると、部屋から出ていった。
「なるほど」伊勢谷くんはまだ窓際に立って井戸を眺めている。
「何か発見したのかい?」
「うん。中々、おもしろい構図をしていると思ってね」
「構図? 何の話だい?」
「まあ、いい。今は頭の中で色々と、推理を組み立てている段階だからね」
「推理、というと?」
「魔女の正体と、密井戸のトリックについてだよ」
「トリック?」
「そうさ。誰かが茜ちゃんを殺し、井戸に落として、その後に湖へと移動させた」
「伊勢谷くん、簡単に言ってくれるけど、見てごらんよ」僕は井戸の周りにいる警官を指差し、「事件が起きた夜は、もっと大勢の警官がいたんだ。どう考えても、湖へ移動させるなんて不可能だよ」
「だけど、井戸と湖は地下で繋がっているわけではないんだろう?」
「うん。鱒沢警部が言うにはね」
「じゃあ、物理的にいって、誰かが移動させない限り、茜ちゃんの死体が井戸の中から消えるわけはないよね」
「まあ、そうだけど。僕は黙って、きみの名探偵ぶりを、とくと拝見させてもらうことにするよ」僕がそう言うと、伊勢谷くんはどこか自信ありげに微笑み、障子戸を閉めた。「では、下へ行こうか」僕より先に部屋を出て行ってしまう。
「何だ、何だ? お前に用はない。さっさと部屋に戻れ!」
階段を降りると、鱒沢の不機嫌そうな声が聞こえてきた。居間を覗くと、鱒沢が伊勢谷くんを追い払おうとしているところだった。
「まあ、そう言わず」伊勢谷くんは、鱒沢を軽くいなすようにして言う。
「何が、そう言わずだ、この野郎」鱒沢は伊勢谷くんの腕を掴み、腕力に任せて引っ張ろうとしたけれど、伊勢谷くんはビクともしない。
「この、クソガキ」鱒沢は鬼瓦のような顔を真っ赤にしてもう一度、伊勢谷くんの腕を引っ張るけれど、伊勢谷くんの身体は一ミリも動かない。この男、華奢に見えて案外、力があるのかもしれない。
「井戸に張ってある金網は、形状記憶合金の物ではないですか?」伊勢谷くんは涼しい顔をして訊いた。
「な、何だって?」鱒沢は伊勢谷くんの腕から手を離して訊き返した。力づくでは、伊勢谷くんを追いだすのは無理だと覚ったらしい。
「金網ですよ。曲げても元の形に戻る物が使われてないですか?」
「ふん! そんな高価な物を使うわけないだろ。曲げたら曲げたままの、安物の金網だ」
「なるほど」伊勢谷くんの推理はあっさり否定されたものの、まったく意に介した様子を見せない。
「それで、僕に訊きたいことというのは?」僕は口を挟んだ。
「もう一度、事件が起こった時の様子を事細かく教えてくれ」
またか。どうして、何度も何度も同じことを話さなければならないのか。
「少女が井戸の中に落ちた、という鳴瀬くんの証言は変わらないですよ」僕が口を開く前に伊勢谷くんが答えた。
「何?」鱒沢は、厳めしい顔で伊勢谷くんを睨みつける。
「捜査を行き詰まらせる証言を、目撃者の勘違いと決めつけたい気持ちはわかりますけど、真実から目を逸らしてはいけません。鳴瀬くんは確かに、少女が井戸の中にいるのを目撃したんですから」
「貴様、さっきから黙って聞いてれば、ぬけぬけと」鱒沢の顔は、今にも噴火しそうなほど真っ赤に染まる。
「僕は何も、捜査の邪魔をしようとしているわけじゃないんです。真実を追求したいだけですから、ご安心を」
「何が真実だ、出てけ! おまえらに、もう用はない!」鱒沢の怒声が響く。
「冷静に。感情的になっても、物事の本質を見失ってしまうだけですよ」
伊勢谷くんは、鱒沢の神経を逆撫でするように冷静な口調で言った。そのため、鱒沢の機嫌はさらに悪化し、僕らは土間のほうへと追い出されてしまった。
「捜査の邪魔をしやがったら、即座に逮捕してやるからな!」
鱒沢は、伊勢谷くんに人差し指を突きつけ、居間と土間をしきる障子戸を力まかせに閉めてしまった。
「まったく、からかいがいのある、愉快な警部さんだね」伊勢谷くんはどこか楽しげな表情を浮かべている。
「推理小説でよく見かけるけど、刑事と素人探偵ってのは、本当に相容れないもの何だね」
「素人探偵か。さて、鳴瀬くん。和尚さんとやらに会いに行く前に、ぜひとも魔女の井戸を僕に拝見させてもらえないだろうか」
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