第6話 玄鶴和尚
M駅で新幹線を降りて、私鉄線に乗り換え、人里離れた侘しい駅で降車した。
日に二本しか運行していないバスに揺られること一時間あまり。周囲には木々の風景しか見えないと思っていたら、突然、進行方向の左手側の視界が開けた。眼下には、五月の穏やかな陽光をキラキラと照り返す湖が姿を現した。山を一つ越えた向こうに、茅葺屋根の家が点在する小さな集落が見える。
「あれが、朝霧村だ」山口は突然目を覚まして言った。
「あの村に魔女が?」僕は呟きながら村を眺める。特に変わった様子はない。辺鄙な村、という印象だけだ。
「お二人とも、朝霧村へお越しですか」前の座席に座る年老いた坊さんが、突然話しかけてきた。顔中に皺が深く刻まれている。顎には仙人のように真っ白な髭が生えていた。
「はい」何かの悟りの境地に達したような、穏やかな老人の様子に、僕はどこか親しみを覚えて返事をした。
「魔女伝説の取材にね。わざわざ東京から参上ですよ」山口が老人をからかうような調子で答える。
「魔女? これはまた、古い伝説を」皺の奥に埋もれた老人の瞳が、鈍く光ったのを僕は見逃さなかった。
「ご存じなんですか?」
「昔から村に伝わる話だからな。若い人にはあまり馴染みがなくなってきているが、わたしら年寄り連中で知らない者はいないはずだ」
「爺さんは、いつからあの村に?」山口が不躾に訊く。
「わたしは元々、あの村で生まれ育った。十四歳で村の禅寺の小僧になって以来、七十二年間、一度も仏の道から逸れたことはない。ちなみに、名はゲンカクという」
空中に『玄鶴』と書いて、和尚は誇らしげに胸を張る。
「それで、和尚は魔女の声は聞いたことがあるのかい」
山口の質問に、玄鶴和尚の顔が曇る。
「あるんですね」と僕。「いつです?」
「昔、わたしがまだ、今のあんたたちよりも若かった頃。忘れもしない」玄鶴和尚はそう言うと、朝霧村のほうに視線を向けて、黙り込んでしまう。
「伝説では、今日と同じ五月の満月の夜、祭りの最中に村の子どもたちが井戸の中に飛び込んだとか」僕は諦めずに訊いた。
「そう、あれは悪夢のような光景だった」玄鶴和尚はぼんやりとした口調で言う。
「その場にいたんですか?」
「い、いや、そういう言い伝えなんだ」
慌てて否定するところが、何だか怪しい。山口もそう思ったようで、僕を横目で見てくる。
「最近になって、魔女の笑い声が聞こえるようになったとか?」と僕。
「そう言う村人もいるようだな。わたしは聞かないが。ところで、あんたら、今日は泊まりで?」玄鶴和尚は、無理に話題を変えた。
「はい。そのお祭りを取材しようと思ってまして」
「じゃあ、エガミさんの所へ泊まるんだな」
「エガミ?」
「そう」玄鶴和尚は空中に『江神』と書く。「あの村に旅館はあそこしかない」
「何を隠そう、噂の美少女は、その旅館の娘なんだ」山口が僕にこっそり耳打ちしてくる。
「わたしもこれから、江神家へ行くところなんだ」玄鶴和尚が振り返って言う。「見舞いにな」
「誰のです?」
「江神家の当主。わたしと幼馴染みなんだが、今年に入ってから心臓の持病が悪化して、ずっと寝たきりになっている」
「なるほど」
魔女の話から逸れたことで、僕は少し興味を失った。山口は露骨に大きなあくびをする。
「長生きしてくれるといいんだが」
玄鶴和尚は、僕らに聞かせるでもなく、独り言のように呟いた。まもなくバスは下り道に差し掛かり、僕らの会話はそこで終わった。
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