第5話 魔女の夢

 薄暗く陰鬱とした森の中を、僕は一人きりで歩いている。

 突然、木の葉がバサバサと激しく揺れる音が響いた。

「ひぃ~~~」

 僕は恐怖に慄き、尻もちをついてしまう。それを嘲笑うように、カァカァと、一羽のカラスが飛び去っていき、僕は安堵のため息を吐きながら立ち上がる。

 キナ臭い。どこかから黒煙が漂ってくる。歩けば歩くほど、煙はどんどん濃さを増していく。やがて、一軒の古びた小屋が姿を現した。その小屋の小さな煙突から、黒煙が流れ出ている。

「鳴瀬くん!」突然、小屋の中から馴染みの声が聞こえてきた「何をそんな所で突っ立っているんだい、鳴瀬くん。早く、こっちへ」

 間違いない。伊勢谷くんの声だ。

「伊勢谷くんかい?」

「そうだよ。きみに頼みがある。早く、こちらへ」

「わかった。すぐに行くよ」僕は安堵感を覚えながら小屋へと走る。

「伊勢谷くん、こんな所で一体、何をしているんだい?」

 小屋のドアを開けながら僕は訊いた。その瞬間、心臓が緊急停止しそうになった。小屋の中にいたのは、黒いトンガリ帽子を被り、黒いローブをまとった、恐ろしく長い鉤鼻の老婆だったからだ。老婆は、グツグツと煮込んだ大きな釜の中身を、ホウキの柄で掻き混ぜている最中だった。その傍らに黒猫が数匹、気持ちよさそうに寝そべっている。天井から吊るされたカゴの中にはフクロウが入っていた。

「ま、ま、ま、魔女!」僕は恐怖のあまり、絶叫してしまった。

「何を騒いでいるんだい、鳴瀬くん」不気味な笑みを浮かべながら言う老婆の声は、まさしく伊勢谷くんのそれだった。

「い、伊勢谷くん?」

「そうだよ。よく見てごらんよ」

 そう言われて僕は少し近づき、老婆の顔を見つめた。確かにどことなく伊勢谷くんの面影がある。

「一体、どうしたんだい、その鼻、その格好。それに、こんな所で何をしているんだい」

「決まっているじゃないか。賢者の石を作っているんだよ」

「賢者の石? 何だい、それは」

「ハッ! 無知にもほどがあるよ、鳴瀬くん。賢者の石とは、卑金属を貴金属に変え、人体を永遠不滅にする、魔法のエリクシールのことじゃないか」

「魔法の? きみの研究テーマは、そんなものじゃなかったはずじゃないか」

「研究? 違うよ、鳴瀬くん。これは発明だよ。人類史に燦然と輝く大発明。中世の錬金術師たちが成し遂げられなかった大発明を、今ここで、僕が成し遂げるんだ」いつも冷静沈着な伊勢谷くんが、珍しく興奮した様子を見せる。

「何だか知らないけど、僕に頼みっていうのは?」

「うん。実は賢者の石を作るのに、あと一つだけ足りないものがあってね。ぜひ、きみに協力してもらいたい」

「僕に協力できることがあるのかい」

「うん。足りないものっていうのは、鳴瀬くんが持っているものなんだ」

「僕が」

「そう、きみが」

「一体、それは……?」僕は手ぶらだった。

「ちょっと、こっちへきて」

 伊勢谷くんが手招きする。笑うと、口角が頬骨の辺りまで上がり、不気味さが増すために、僕は躊躇した。

「何をモタモタしているんだ。早くしないと、効力が落ちてしまうじゃないか」

 伊勢谷くんの剣幕に圧されて、僕は部屋の中に足を踏み入れた。

「早く」と手招きする伊勢谷くんの指は骨張り、皮膚は薬傷で爛れている。

「ねえ、伊勢谷くん。僕は何も持ってやしないよ。ポケットにだって、ほら、何も入ってない」大きな釜を挟んで立ち止まり、伊勢谷くんにジーンズのポケットを裏返してみせた。

「そりゃあ、ポケットになんて入らないよ」伊勢谷くんはホウキの柄から手を離すと、後ろ手に何かを掴んだ。

「じゃあ、きみの欲しがっている物っていうのは?」何だか嫌な予感がして、僕は後ろに一歩退きながら訊いた。

「僕が欲しがっている物。それはね……」伊勢谷くんは口角をさらに上げて笑い、「きみの命だよ!」と叫ぶと、後ろ手に握りしめていた大きな鎌を振り上げた。

「うわぁ!」

 僕は叫び声をあげ、入り口のほうへ逃げようとしたけれど、伊勢谷くんは大きな釜をひとっ跳びで越え、僕を後ろから羽交い締めにしてきた。

「た、助けて」

「往生際が悪いよ、鳴瀬くん。ヒィーッヒィッヒ――――」僕の耳元で不気味な笑い声が響く。

「た、助けてくれ!」


「お、おい、鳴瀬くん」瞼を開けると、山口が心配そうな顔をして僕の顔を覗き込んでいた。

「あ、あれ? 伊勢谷くんは?」

 周囲に目をやる。新幹線の中だ。伊勢谷くんなんて居やしない。他の乗客たちが、怪訝そうな顔をして見つめ返してくる。そこでようやく事態が飲み込め、羞恥心で身が縮む思いがした。

「どんな夢を見てたんだ。酷いうなされようだったぞ」山口がビールを飲みながら茶化すように言う。

「何でもないですよ」僕は顔を背け窓の外に目をやりながら、胸中で密かに安堵のため息を吐いた。ああ、夢でよかった。心の底からそう思った。

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