第三章:異星と異能

024 第22話 新学期・新たな出会い

 4月8日。私立聖蹟中学校の新学期初日である。


 朝、デヴォラントが制服に着替えていると、ドアがノックされた。


「お兄ちゃん、入っていい?」


 花音の声だった。


「ああ」


 ドアが開き、花音が新しい1年生の制服を着て現れた。スカートの丈も適切で、リボンも綺麗に結ばれている。見た目は完璧な新入生だった。


「どう? 似合う?」


 花音がくるりと回って見せた。その動作の中で、一瞬だけ視線がデヴォラントを鋭く捉えた。まるで獲物を値踏みするような、計算高い光。しかし次の瞬間には消え、再び無邪気な笑顔に戻っている。


「よく似合っている」


「ありがとう。お兄ちゃんも、3年生になったんだね」


 花音は部屋の中を見回しながら、ベッドに腰掛けた。


「新学期って、新しい出会いがあって楽しみだよね♪」


 その言葉には、別の意味が込められていた。


「最近、ちょっと退屈なの」


 花音が何気なく呟いた。しかし、その声調には軽い不満が含まれている。


「退屈?」


「うん。なんだか、刺激のない日々が続いてるじゃない?」


 花音の視線がデヴォラントに向けられた。冗談めかした口調だったが、その奥に潜む要求を、デヴォラントは理解していた。


 彼女は、より積極的な「活動」を求めている。年末の半グレ殲滅以降、比較的平穏な日々が続いていたが、花音にとってはそれが物足りないのだろう。


「そうか」


 デヴォラントは短く答えた。花音の要求を理解しているが、今は時期ではない。しかし、彼女の不満を完全に無視することもできない。


「まあ、新学期だからね。きっと何か面白いことがあるでしょう」


 花音は立ち上がりながら言った。その表情は再び無邪気な笑顔に戻っている。


「それじゃあ、一緒に学校行こう、お兄ちゃん」


◇◇◇


 二人は神崎家を出て、聖蹟中学校に向かった。


 正門前には、新入生とその保護者たちが集まっていた。桜の花びらが舞い散る中、真新しい制服に身を包んだ中学1年生たちが、緊張した面持ちで校舎を見上げている。


 昇降口で上履きに履き替えながら、デヴォラントは校内の変化を観察していた。新入生の流入により、廊下は例年以上に賑やかになっている。教職員たちも慌ただしく動き回り、新学期特有の活気に満ちていた。


 3年A組の教室に向かう途中、デヴォラントは花音の姿を見つけた。彼女は1年C組の教室前で、新しいクラスメイトたちと談笑している。


 表面上は普通の少女として振る舞いながら、その実は連続殺人鬼である花音。デヴォラントとの共犯関係は、今のところは完璧に機能していた。


 花音がこちらに気づき、軽く手を振った。優しい兄への挨拶として自然な反応だったが、その瞬間、二人の間に微妙な意思疎通が成立した。


 今日から新しい段階が始まる。そのことを、互いに理解していた。


 3年A組の教室に入ると、馴染みのあるクラスメイトたちの顔があった。


 翔真は既に自分の席に座り、机に突っ伏していた。以前、デヴォラントによって完全に屈服させられた彼は、もはや反抗する意志を失っている。時折びくっと震える様子が、深い恐怖の根付きを物語っていた。


 他のクラスメイトたちも挨拶を交わしていたが、美桜の死という衝撃的な出来事の記憶が、教室全体に微妙な重苦しさを残していた。12月の事件から数ヶ月が経ったとはいえ、同級生を失った事実は簡単に忘れられるものではない。


 教室に入ってきた担任教師が、新学期の挨拶を始めた。


「皆さん、新学期おめでとうございます。いよいよ最高学年ですね。今年度は新しいクラスメイトも加わりますので、紹介します」


 教師に続いて、一人の少女が教室に入ってきた。


 その瞬間、デヴォラントの注意は完全にその少女に集中した。


 身長は160センチほど。スラリとした体型で、清楚な美しさを持っている。黒髪をポニーテールに結い、整った容貌は一目で注意を引く。しかし、デヴォラントが最も注目したのは、その立ち振る舞いだった。


 背筋が完璧に伸び、歩き方に微塵の隙がない。一見すると普通の中学生だが、デヴォラントの融合した軍人たちの記憶が警告を発していた。


 これは戦闘訓練を受けた人間の歩き方だ。


李美琳リ・メイリンです。この度、転校してまいりました」


 流暢な日本語で自己紹介する。微かに中国系の訛りが感じられる声だった。透き通るように美しく、品のある話し方をしている。


「趣味は読書と……武術です」


 武術、という単語を発した瞬間、デヴォラントの警戒心が高まった。


 李美琳が教壇に立つ姿を見つめながら、デヴォラントは彼女を詳細に分析していた。


 外見年齢は15歳程度に見える。しかし、生体スキャンの情報から、実際の年齢は20代前半である可能性が高い。年齢偽装の技術も相当なものだった。


 最も重要なのは、李美琳の視線だった。自己紹介をしながら、彼女の目は教室内の生徒たちを観察している。そして、その視線がデヴォラントに留まった瞬間、微妙な変化があった。


 ほんの一瞬、彼女の瞳に警戒の色が浮かんだ。


 デヴォラントは確信した。この少女は、何らかの任務を帯びてここに来ている。おそらく、中国側が調査を開始した結果の一つだろう。


 しかし、どの組織に属しているかは不明だった。


 重要なのは、李美琳がまだ完全に標的を特定していないということだった。彼女の視線には警戒心があったが、それは「可能性のある対象」を見る目であり、「確定した標的」を見る目ではなかった。


 おそらく、複数の候補の中からの絞り込み段階にあるのだろう。


「李さんの席は……神崎君の隣にしましょう」


 担任教師の指示で、李美琳はデヴォラントの隣の席に座ることになった。これは偶然なのか、それとも意図的な配置なのか。


 李美琳が席に着く際、デヴォラントとの距離が最も近くなった。その瞬間、彼女から微かに漂ってきた香りを、デヴォラントは分析した。


 花の香水ではない。薬草系の、中国伝統医学で使われるような香りだった。そして、その奥に隠された別の匂い——


 血の匂いだった。


 戦闘経験者特有の、消しきれない血の残り香。李美琳は戦闘のプロフェッショナルである。


◇◇◇


 朝のホームルームが終わり、1時間目の授業が始まった。


 数学の授業中、デヴォラントは李美琳の様子を観察し続けていた。彼女は真面目に授業を受けているように見えたが、時折教室の窓や出入り口を確認している。警戒態勢を維持しているのは明らかだった。


 李美琳もまた、デヴォラントを観察していた。教科書を読むふりをしながら、横目で彼の動きを追っている。


 2時間目の英語の授業で、李美琳の能力の一端が明らかになった。


「李さん、この英文を読んでもらえますか?」


 英語教師の指名に、李美琳は完璧な発音で英文を読み上げた。ネイティブレベルの流暢さで、クラス全体が驚きの声を上げた。


 しかし、デヴォラントにとってより重要だったのは、李美琳の学習能力だった。初日にも関わらず、彼女は授業内容を完璧に理解している。これは単なる語学力の問題ではなく、情報処理能力の高さを示していた。


 3時間目の体育の授業。


 更衣室で体操服に着替える際、デヴォラントは他の男子生徒たちの反応を観察していた。李美琳の美しさは既に話題になっており、多くの男子生徒が関心を示していた。


 グラウンドに集合すると、体育教師が準備運動の指示を出した。


「それじゃあ、まずは50メートル走から測定するぞ」


 女子の番になり、李美琳がスタートラインに立った。


 スターターの合図。


 李美琳の身体が弾けた。


 一歩、二歩、三歩——その間に、他の女子生徒は半歩しか進んでいない。圧倒的な加速力。彼女の足が地面を蹴るたびに、小石が跳ね上がる。


 ゴール。


 ストップウォッチの数字を見た体育教師が、思わず二度見した。


 6秒58。


 女子の全国記録に迫る数字だった。


「す、すごいな……李さん、何かスポーツをやっていたんですか?」


 体育教師が驚いて質問した。


「少し、武術を」


 李美琳の答えは控えめだったが、その身体能力は「少し」のレベルを遥かに超えていた。


 跳び箱の測定。李美琳は8段を軽々と越えて見せた。踏み切りから着地までの動作が、まるで訓練された軍人のように正確で無駄がない。


 昼休み。デヴォラントは李美琳の動向を確認する必要があった。


 李美琳は一人で屋上に向かっていた。昼食を持っているが、他の生徒たちと交流する意図はないようだった。


 デヴォラントは慎重に距離を保ちながら、彼女の後を追った。


 屋上のドアが開かれ、李美琳が外に出た。デヴォラントは階段の陰に身を隠しながら、様子を窺った。


 李美琳は屋上の端に立ち、携帯電話を取り出した。そして、短い中国語での会話を始めた。


 デヴォラントは、融合した中国特殊部隊の記憶を使って、その会話内容を理解しようとした。距離があるため、完全には聞き取れなかったが、いくつかの重要な単語を拾うことができた。


「目標」「確認」「待機」


 やはり、李美琳は何らかの任務を帯びてここに来ている。


 通話を終えた李美琳は、しばらく空を見上げていた。その表情には、任務への重圧と、同時に別の感情も読み取れた。


 困惑だった。


(まだ確証を得られていないのか)


 デヴォラントは彼女の心理状態を推測した。李美琳は複数の対象を観察しているが、決定的な手がかりを掴めていない。今日の接触でも、確定的な証拠は得られなかったようだ。


◇◇◇


 放課後。デヴォラントが教室で荷物をまとめていると、花音が友人と一緒に現れた。


「お兄ちゃん、詩織ちゃんだよ」


 花音の隣に立っていたのは、見覚えのある少女だった。一度会ったことがある櫻井詩織。12歳とは思えないほど整った容貌で、上品な雰囲気を漂わせている。


「お久しぶりです。櫻井詩織です」


 詩織が丁寧に挨拶した。その声は澄んでいて、立ち振る舞いも洗練されている。


「神崎優だ。こちらこそ」


 デヴォラントも挨拶を返した。


「私たち、今日お買い物に行くの。お兄ちゃんも一緒に来ない?」


 花音が提案した。


 デヴォラントは一瞬迷った。李美琳の動向を追跡したい気持ちもあったが、花音の「退屈」発言もあり、彼女のペースに合わせることも必要だった。


「そうですね。神崎先輩も一緒だと楽しそうです」


 詩織が微笑みながら言った。しかし、その瞬間、彼女の視線がデヴォラントを捉えた。


 その視線は、少女のものとは思えないほど鋭く、まるで何かを探るような強い意志が込められていた。数秒間、詩織はデヴォラントをじっと見つめ続けた。まるで、彼の内側に隠された何かを見透かそうとしているかのように。


 デヴォラントは内心で警戒心を高めた。詩織もまた、普通の中学生ではない可能性がある。今日は転校生の李美琳だけでなく、花音の友人である詩織にも注意を払う必要がありそうだった。


 三人は一緒に校門を出た。


 商店街を歩きながら、デヴォラントは花音と詩織の関係性を観察していた。


 花音は普段通りの無邪気な少女として振る舞っているが、詩織との会話には微妙な緊張感があった。互いに相手を探っているような、慎重なやり取りが続いている。


「詩織ちゃんは、どこから転校してきたの?」


「神奈川です。父の仕事の都合で」


「そうなんだ。こっちの学校はどう?」


「とても良い学校だと思います。特に、興味深い人たちがたくさんいますね」


 詩織の答えには、何か含みがあった。その視線が再びデヴォラントに向けられる。


 アクセサリーショップで、花音が髪飾りを物色している間、詩織はデヴォラントに話しかけてきた。


「神崎先輩は、どんなことに興味がおありですか?」


「特に何も」


「そうですか。でも、何か特別な雰囲気をお持ちですよね」


 詩織の視線が、再びデヴォラントを見つめた。今度は先ほどよりも長く、より深く。まるで、彼の内面を読み取ろうとしているかのようだった。


「そんなことはない」


「いえ、きっと何か特別なものをお持ちです。私にはわかります」


 詩織の言葉には確信が込められていた。12歳の少女が発する言葉とは思えない重みがある。


 花音が戻ってきて、三人は次の店に向かった。しかし、デヴォラントの心の中では、新たな警戒心が芽生えていた。


 李美琳だけでなく、櫻井詩織もまた、普通の中学生ではない。そして、花音もその事実に気づいている可能性が高い。


 買い物を終えて家路につく途中、デヴォラントは李美琳のセーフハウスらしき一軒家の前を通りかかった。詩織と花音は気づいていないようだったが、家の中から微かに人の気配を感じることができた。


 李美琳たちの組織は、確実に活動を開始している。そして、詩織という新たな要素も加わった。


 デヴォラントにとって、波乱に満ちた展開となりそうだった。


◇◇◇


 その夜、神崎家の夕食時。


「今日はどうだった?」


 正樹が聞いた。


「新しいクラスメイトが来ました」


 デヴォラントは簡潔に答えた。


「転校生? どんな子?」


 恵美が興味深そうに聞いた。


「中国系の女子です。李美琳という」


「あら、国際的ね」


「私のクラスはみんな緊張してた。それから、お兄ちゃんに詩織ちゃんを改めて紹介できて良かったよ」


 花音の報告は何気ないものだったが、その中に重要な情報が含まれていた。詩織という少女についても、何か特殊な要素があることを示唆している。


「聞いて。私、今度映画のオーディション受けることになったの」


 美沙が得意げに発表した。


「すごいじゃない」


 恵美が褒めた。


「頑張って、姉さん」


 デヴォラントも優として、義姉を励ました。


 しかし、内心では別のことを考えていた。美沙の芸能活動は、何かしら利用できる可能性がある。今はまだその時期ではないが、将来的な計画の一部として活用できるだろう。


 夕食後、デヴォラントは自分の部屋に戻った。


◇◇◇


 午後10時。


 デヴォラントはノートPCを起動した。


 李美琳という訓練された監視者。櫻井詩織という謎めいた観察者。そして、退屈を訴える花音。


 三つの変数が、同時に動き始めている。


(情報が足りない)


 表面的な観察だけでは不十分だ。各勢力の正体、目的、そして自分への認識度。これらを正確に把握する必要がある。


 デヴォラントは捕食したハッキング技術を起動した。美桜のSNSを操作した時と同様の手法——いや、今回はより高度な技術が必要になる。


 まず、李美琳の通信記録を追跡する。


 彼女が使用している携帯端末は、最新の暗号化技術で保護されていた。しかし、李副隊長の記憶には中国軍の暗号体系に関する詳細な知識が含まれている。


 使用されている暗号方式は——AES-256による多重暗号化。さらに量子暗号の初期実装も確認できる。中国軍の最新セキュリティ技術だ。


 デヴォラントは解読作業を開始した。


 まず、通信パケットの構造を分析する。暗号化されたヘッダー情報から、通信先のサーバーを特定。次に、そのサーバーのセキュリティホールを探す。


 李副隊長の知識によれば、中国軍の通信システムには既知の脆弱性がいくつか存在する。特に、量子暗号の実装は実験段階であり、完璧ではない。


 15分後、最初の突破口が開いた。


 通信ログへのアクセスに成功。李美琳が今日行った全ての通信記録が表示される。


 報告先は——「龍鳳エンターテインメント」という芸能事務所。しかし、その実態は——


 デヴォラントは目を細めた。


 通信内容を詳細に分析すると、明らかに軍事関連の暗号通信が含まれていた。「目標」「監視」「作戦」といった単語が頻出している。


 さらに深く掘り下げると、組織の正式名称が浮かび上がってきた。


 道師連ダオシーリエン——人民解放軍戦略支援部隊特種兵第九作戦群。


 中国の異能部隊だった。


 デヴォラントは李美琳の今日の報告書を開いた。


『初日の状況報告。聖蹟中学校への潜入成功。3年A組、神崎優の隣の席に配属。至近距離での観察が可能になった』


『第一印象:確証はないが、勘として間違いない。彼の目は捕食者のそれ。戦場で見た、殺しに慣れた者の視線と同質』


『神崎優を最重要監視対象として指定。ただし接触は慎重に。相手が本物なら、警戒させれば民間人に被害が出る可能性あり』


『他の気になる人物:神崎花音(1年C組)、櫻井詩織(1年C組)。両名とも普通の子供ではない可能性』


 デヴォラントは冷静に情報を整理した。


 李美琳は自分を疑っているが、まだ確証は得ていない。「可能性のある対象」として監視している段階だ。


 次に、櫻井詩織について調査する。


 彼女の通信記録は李美琳よりもさらに厳重に保護されていた。日本の携帯通信網のセキュリティは中国のそれとは異なる方式を採用している。


 しかし、デヴォラントは諦めなかった。


 日本の通信事業者のサーバーに侵入し、詩織の端末の位置情報と通信パターンを分析する。GPSログ、基地局接続履歴、データ通信量の変動。


 30分後、詩織の通信先が判明した。


 内閣府特殊災害対策調整室——特災調。そして、もう一つの組織——「神域保全機構」。


 デヴォラントは神域保全機構のデータベースに侵入した。厳重なファイアウォールに守られているが、李副隊長の技術があれば突破可能だ。


 組織の概要が表示される。


 神域保全機構——日本の霊的防衛組織。千年以上の歴史を持つ陰陽道の系譜を引き、現代では政府の超常現象対策部門として機能している。


 そして、櫻井詩織の報告書。


『世田谷区で二つの異常な気配を感知。神崎優、神崎花音。神崎優からは強い悪意を感じるが、正体は不明。神崎花音からは奇妙な違和感があるが、悪意は感知できず』


『継続監視を要請。両名の正体究明が必要』


 デヴォラントはさらに調査を深めた。


 特災調のネットワークに侵入すると、別の組織の存在も浮かび上がってきた。


 在日米軍司令部からの定期的な通信。防衛省情報本部との連携。警視庁捜査一課からの情報照会。


 各国の組織が、何らかの異常事態を察知して動き始めている。


 デヴォラントは全ての情報を統合した。


 調査対象リストには、複数の名前が記載されていた。しかし、その中心に——「世田谷区・神崎優」の名前があった。


 重要なのは、各組織が独立して調査を進めているという点だ。日米合同捜査チームと神域保全機構はある程度の協調路線を歩んでいるようだが、中国側の道師連は他勢力とのコンタクトは無く、互いの動向もある程度しか掴んでいないようだ。


(まだ確定はしていない)


 デヴォラントは冷静に分析した。各組織は「可能性のある対象」として神崎優を監視しているが、決定的な証拠は掴んでいない。


 李美琳の報告:「確証なし。勘による判断」


 詩織の報告:「悪意を感知するが、正体は不明」


 特災調の評価:「継続監視対象。危険度評価は保留」


 在日米軍の情報:「Interest Person、要観察」


 全ての組織が、まだ疑いの段階にある。


 デヴォラントは証拠隠滅を開始した。


 今夜のハッキングの痕跡を完全に消去する。アクセスログの削除、使用したIPアドレスの匿名化、侵入経路の完全な封鎖。


 デジタル・フォレンジクスでも追跡不可能なレベルで痕跡を消し去る。さらに高度なのは、ログの改ざんではなく「自然な欠損」を演出する技術だ。


 サーバーの一時的な負荷増加、通信の瞬断、バックアップの部分的失敗。これらは日常的に発生する現象であり、不自然さを感じさせない。


 さらに、デヴォラントは各組織の監視システムに軽微な妨害工作を仕込んだ。


 致命的なものではなく、ほんの数秒の遅延や、データの一部欠損。これにより、彼らの調査効率をわずかに低下させることができる。


 具体的には、道師連の通信システムに0.3秒の遅延を発生させるパケット操作。神域保全機構の霊的監視ネットワークに微細なノイズを混入。特災調のデータベースに、ランダムな検索遅延を引き起こすスクリプト。


 いずれも気づかれない程度の小さな妨害だが、積み重なれば確実に調査速度を低下させる。


 作業完了。所要時間1時間30分。


 デヴォラントは満足した。


(各勢力の動向は把握した。当面は監視段階。まだ時間的余裕がある)


 李美琳は中国の異能部隊道師連ダオシーリエン。詩織は日本の神域保全機構。そして背後には日米合同チームの存在も示唆されている。


 複数の勢力が、同時に動き始めている。


 しかし、デヴォラントにとって、これは脅威ではなく——機会だった。


 彼らの通信を傍受し、動向を監視し、相互の対立を利用する。そして最終的には、各組織の技術と知識を自分のものにする。


(完璧だ)


 デヴォラントは各組織の弱点と対立構造を把握した。これを利用すれば、彼らを互いに牽制させながら、自分は自由に動くことができる。


 さらに重要な発見もあった。


 道師連の作戦計画書の中に、興味深い記述があった。


『第一段階:監視・情報収集(現在実施中)』


『第二段階:標的確定後、呂閻王中校を先行投入。戦力測定』


『第三段階:本隊による制圧作戦』


 呂閻王——デヴォラントはその名前に注目した。道師連の構成員の一人で、「キョンシー使い」という異名を持つ異能者らしい。


 作戦計画によれば、標的が確定した後、まずこの呂閻王という人物を「偵察兵」として投入し、デヴォラントの戦闘能力を測定する計画のようだ。


(面白い)


 デヴォラントの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。


 彼らは慎重だが、その慎重さが逆に手の内を明かしている。作戦計画を事前に知ることができれば、対策は容易だ。


 そして、呂閻王という「かませ犬」を捕食すれば、キョンシー操術という新たな能力を獲得できる可能性もある。


 デヴォラントはさらに調査を続けた。


 神域保全機構の内部文書には、櫻井詩織に関する詳細な記録があった。


 彼女は12歳にして、既に実戦経験を持つS級霊能力者。新宿でA級怪異を単独で討伐した実績があり、組織内でも「期待の新人」として評価されている。


 能力は「悪意探知」と「霊的攻撃無効化」。ただし、花音の正体は感知できていないようだ。


(興味深い)


 花音は連続殺人鬼でありながら、詩織の悪意探知能力をすり抜けている。これは花音の生体反応制御能力の副産物なのか、それとも別の理由があるのか。


 デヴォラントは花音に関する情報も収集した。


 警視庁のデータベースには、世田谷区周辺で発生した未解決殺人事件のリストがあった。被害者はいずれも小児性愛の傾向がある成人男性。殺害方法は極めて専門的で、一撃必殺。


 加藤修三警部という定年間近のベテラン刑事が、これらの事件を担当していた。彼は事件の共通点に気づき、連続殺人の可能性を指摘している。


 しかし、決定的な証拠はなく、捜査は難航しているようだ。


(花音の仕事は完璧だ)


 デヴォラントは花音の技術を改めて評価した。12歳にして、プロの刑事でも追跡できないレベルの犯罪を実行している。


 最後に、デヴォラントは美沙に関する情報も確認した。


 彼女が受けるという映画のオーディション。調べてみると、それは大手芸能事務所「龍鳳エンターテインメント」が制作に関わっている作品だった。


 龍鳳エンターテインメント——道師連の隠れ蓑として使われている組織だ。


(偶然ではないだろう)


 道師連は神崎家全体を調査対象としている可能性が高い。美沙のオーディションも、神崎家への接近手段の一つかもしれない。


 デヴォラントは全ての情報を統合し、今後の戦略を立案した。


 第一に、各組織の監視は継続する。彼らの動向を常に把握し、先手を打つ。


 第二に、各組織の対立を利用する。情報を選択的にリークし、互いに牽制させる。


 第三に、機会があれば敵戦力を捕食する。特に呂閻王のような「先行投入される偵察兵」は、格好の標的だ。


 第四に、花音の安全を確保する。彼女は貴重な協力者であり、失うわけにはいかない。


 第五に、李美琳と詩織との関係を慎重に構築する。彼女たちは敵であると同時に、潜在的な情報源でもある。


 特に李美琳——デヴォラントは彼女に興味を抱いていた。


 任務に忠実な軍人でありながら、民間人の被害を最小限に抑えようとする正義感。その矛盾した性格は、利用価値がある。


(面白い展開になりそうだ)


 デヴォラントは全ての痕跡を消去し、PCをシャットダウンした。


 時刻は午前0時を回っていた。


 窓の外では、満月が世田谷の街を照らしている。


 デヴォラントはベッドに横たわりながら、今日の出来事を反芻した。


 李美琳という美しく危険な転校生。櫻井詩織という謎めいた霊能力者。そして、退屈を訴える花音。


 三人の少女が、それぞれの思惑を抱きながら、デヴォラントの周囲に集まってきた。


 同時に、複数の国際組織が動き始めている。中国の道師連、日本の神域保全機構と特災調、日米合同チーム、そして警視庁。


 舞台は整った。


 プレイヤーたちが、それぞれの駒を動かし始めている。


 しかし、彼らは知らない。


 このゲームの真の支配者が誰なのかを。


 デヴォラントの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。


(狩りの時間だ)


 明日から、さらに複雑な駆け引きが始まる。


 李美琳は自分を観察し続けるだろう。詩織は霊的感知能力で警戒を続けるだろう。花音は新たな刺激を求めるだろう。


 そして、各組織は互いに牽制し合いながら、「神崎優」という謎の存在を追い続けるだろう。


 しかし、デヴォラントは常に一歩先を行く。


 彼らの通信を傍受し、計画を把握し、動きを予測する。そして、最適なタイミングで最適な手を打つ。


 38年間、社会の最底辺で生きてきた男。


 しかし今は違う。


 異星の技術と、11名分の専門知識。そして、冷酷な計算能力と、無限の復讐心。


 全てを兼ね備えた、完璧な捕食者。


 それがデヴォラントだった。


 窓の外で、満月が不気味に輝いている。


 その光の下、三つの家が静かに佇んでいた。


 神崎家。李美琳のセーフハウス。櫻井家。


 三人の少女と一人の怪物。


 それぞれが、それぞれの思惑を抱きながら、新たな戦いの始まりを予感していた。




◇◇◇




 同じ夜、李美琳のセーフハウス。


 彼女は暗号化された通信端末で報告していた。画面の向こうには、上官の顔が映し出されている。


「初日の状況を報告します」


 李美琳の声は、学校で見せていた柔らかさとは異なる、軍人特有の硬さを帯びていた。


「聖蹟中学校への潜入は成功。3年A組に配属されました」


『神崎優との接触は?』


「同じクラス、隣の席です。至近距離での観察が可能になりました」


『第一印象は?』


 李美琳は少し間を置いた。


「……確証はありません。しかし」


『しかし?』


「勘ですが、間違いありません」


 画面の向こうで、上官が眉をひそめた。


『理由は?』


「彼の目です。表面上は普通の中学生を装っていますが、時折見せる視線が——」


 李美琳は言葉を選んだ。


「捕食者のそれです」


『捕食者?』


「戦場で何度も見た目です。殺しに慣れた者の、獲物を値踏みする視線」


 上官は沈黙した。数秒後、指示が下された。


『神崎優を最重要監視対象として指定する。ただし、接触は慎重に』


「了解しました」


『他に気になる人物は?』


「二名います。神崎花音、1年C組。神崎優の妹です」


『妹?』


「表向きは無邪気な少女ですが……何か違和感があります」


『もう一人は?』


「櫻井詩織、同じく1年C組。神崎花音と親しい様子でしたが、彼女もまた——」


 李美琳は窓の外を見つめた。


「普通の子供ではありません」


『三名を継続監視。週次報告を怠るな』


「はい」


 通信が切れた。


 李美琳は窓の外を見つめた。デヴォラントの家がある方向を。


(神崎優……あなたは一体何者なの?)


 彼女の心の中には、任務への忠誠心と、同時に別の感情も芽生え始めていた。


 神崎優という少年への、不思議な興味。


 敵として警戒すべき存在なのに、どこか惹かれるものがある。あの冷静な視線、計算された動き、そして時折見せる——人間らしさ。


 李美琳は首を振った。


(私は軍人だ。感情に流されるわけにはいかない)


 しかし、心の奥底では、明日また神崎優に会えることを——少しだけ楽しみにしている自分がいた。


 月明かりが、彼女の部屋を冷たく照らしていた。




◇◇◇




 同じ夜、櫻井家。


 詩織は自室のベッドに横たわりながら、今日出会った神崎優を思い返していた。


 部屋は薄暗く、月明かりだけが窓から差し込んでいる。壁には古い護符が貼られ、机の上には数珠と小さな鈴が置かれていた。


(あの人は……何か特別なものを持っている)


 詩織の瞳が、暗闇の中で淡く光る。


 神域保全機構の訓練を受けた彼女には、常人にはない感覚があった。霊的な存在、超常的な力、人間の悪意——それらを感じ取る能力。


 神崎優からは、確かに何かを感じた。しかし、それが何なのか、まだ判別できていない。


(悪意? いいえ、それだけじゃない)


 詩織は目を閉じ、今日の記憶を辿った。


 優が李美琳を見つめていた時の表情。警戒と分析。まるで敵を値踏みするような冷たさ。


 優が自分を見た時の表情。一瞬の警戒の後、すぐに優しい兄の顔に戻った。完璧な演技。


 そして、花音。


 あの少女からも、何か奇妙なものを感じた。表面上は無邪気で愛らしいが、その奥に何かが隠されている。


 しかし不思議なことに、花音からは「悪意」を感じない。詩織の能力は悪意を感知するものだが、花音はそのレーダーに引っかからない。


(神崎優先輩……神崎花音ちゃん……)


 詩織は枕元の携帯電話を手に取り、神宮寺機構長に報告メッセージを送った。


『世田谷区で二つの異常な気配を感知。神崎優、神崎花音。継続監視を要請します。神崎優からは強い悪意を感じますが、正体は不明。神崎花音からは奇妙な違和感がありますが、悪意は感知できません』


 送信ボタンを押した後、詩織は再び天井を見つめた。


「神崎先輩……あなたは、一体何者なの?」


 窓の外では、満月が不気味に輝いていた。


 そして詩織は知らなかった。


 今夜、自分たちの通信記録が全て傍受され、分析されていたことを。


 デヴォラントという名の捕食者が、既に全ての手の内を把握していることを。




◇◇◇




 翌朝。


 4月9日。新学期2日目。


 デヴォラントは普段通りの時間に起床し、制服に着替えた。


 昨夜の情報収集により、戦況は完全に把握した。各組織の動向、彼らの能力、そして自分への認識度。


 全てが計算の範囲内にある。


 階下に降りると、花音が既に朝食の準備を手伝っていた。


「おはよう、お兄ちゃん」


 無邪気な笑顔。しかしその瞳の奥には、何か別の光が宿っている。


「おはよう、花音」


 デヴォラントも自然に応じた。


 二人の間には、言葉にならない理解があった。


 朝食を終え、二人は一緒に学校へ向かった。


 道中、花音が小声で囁いた。


「お兄ちゃん、昨日の転校生……李さんと詩織ちゃん、ちょっと変わってるよね」


「気づいたか」


「うん。二人とも、私たちのこと観察してる」


 花音の観察眼は鋭い。12歳の少女とは思えない洞察力だ。


「大丈夫だ。まだ確証は持っていない」


「そうなの?」


「ああ。当面は普通に振る舞っていれば問題ない」


 花音は少し考えてから、にっこりと笑った。


「じゃあ、今日も可愛い妹を演じるね♪」


 二人は校門をくぐった。


 新しい一日が始まる。


 李美琳との、さらに近い距離での観察。


 詩織との、慎重な探り合い。


 そして、各組織の動向を監視し続ける日々。


 複雑な駆け引きが、今日も続く。


 しかし、デヴォラントは常に一歩先を行く。


 狩人と獲物。


 観察者と被観察者。


 しかし、本当はどちらが狩人で、どちらが獲物なのか。


 それを知っているのは、デヴォラントただ一人だった。


 教室に入ると、李美琳が既に席に座っていた。


 彼女と目が合う。


 一瞬の緊張。


 そして、二人は同時に微笑んだ。


「おはよう、神崎君」


「おはよう、李さん」


 表面上は、ごく普通の朝の挨拶。


 しかしその裏では、互いに相手を分析し、計算し、次の手を考えている。


 完璧な演技。


 完璧な偽装。


 そして、完璧な狩りの始まりだった。

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