023 幕間:追跡者たち
成田国際空港第1ターミナル、到着ロビー。
冬の陽光が巨大なガラス窓を通して差し込む中、一般旅客とは明らかに異なる特別エリアで、入国手続きを完了したばかりの男たちがいた。全員が黒いビジネススーツに身を包み、高級なアタッシュケースを携え、「龍鳳エンターテインメント」の関係者証を首からぶら下げている。
表向きは、中国の大手芸能事務所が日本進出のために派遣したスタッフ集団。しかし、その鋭い眼光と統制の取れた動き、そして彼らが放つ独特の威圧感は、軍事訓練を受けた者特有のものだった。
7人の男たちは、空港の雑踏に紛れながらも、まるで見えない糸で結ばれているかのように完璧な隊形を保っている。一見すると偶然の配置に見えるが、実際は周囲360度の警戒態勢を維持しており、どの方向からの攻撃にも瞬時に対応できる戦闘フォーメーションだった。
「道師1号から道師7号まで、入国手続き完了」
リーダー格の男が、小型の通信機器に中国語で報告する。声は低く、感情を押し殺した軍人特有の簡潔さを持っていた。
彼の顔は日に焼けて浅黒く、額と頬には細かい傷跡が刻まれている。それらは銃弾の破片や刃物による傷で、数々の死線を潜り抜けてきた証だった。特に右の眉上にある一筋の古い傷は、10年前のミャンマー国境での特殊作戦で負ったもので、敵の狙撃手の銃弾が数ミリそれた結果だった。
表向きは「龍鳳エンターテインメント」のスタッフとして入国しているが、実際の経歴を知る者は中国政府内でも極めて限られている。
「手配は完璧です。北京の『青龍会』に全面協力させましたから」
呉継明の隣に立つ副隊長格の男——
青龍会。表向きは芸能事務所「龍鳳エンターテインメント」を経営し、中国系タレントの日本進出を支援する正当なビジネスを展開している。しかし実際は、中国系マフィアの日本進出拠点として機能している組織だった。
今回の作戦では、本国の諜報機関からの強力な「要請」により、道師連の潜入工作に協力することになった。協力といっても、実際には脅迫に近い圧力だった。中国政府の意向に逆らえば、本国での事業が全て停止され、幹部の家族にまで危険が及ぶ。マフィアといえども、国家権力の前では従わざるを得ない立場にあった。
「装備の状況は?」
呉継明が低い声で確認する。
「芸能機材として偽装済みです。照明機器、音響設備、舞台装置の内部に、戦闘用装備を隠匿しています」
龍海峰が手に持つタブレット端末の画面を指差しながら答える。画面には、成田の倉庫に保管された大量の機材リストが表示されていた。
道師連の装備は極めて特殊だった。通常の軍用装備——小銃、拳銃、爆薬、通信機器——に加えて、道教の秘術で強化された武器や道具類が含まれている。符籙術の札、気功で強化された刃物、風水羅盤を組み込んだ電子機器、さらには古代中国の錬金術で作られた特殊な薬剤まで。
これらを一般的な芸能機材に偽装して持ち込むには、相当の技術と準備が必要だった。照明機器の内部に分解された銃器を隠し、音響機器のスピーカー部分に爆薬を仕込み、舞台装置の支柱に刀剣類を内蔵する。すべて税関の検査をクリアできるよう、完璧に偽装されていた。
「まず東京都内で拠点を設営し、情報収集を開始する」
呉継明が部下たちに指示を出す。その声には、戦場で鍛えられた指揮官としての威厳が込められていた。
「王隊長以下7名の全滅という事実を忘れるな。我々が相手にしているのは、通常兵器では対処不可能な超常的存在だ」
部下たちの表情が一瞬で引き締まる。王志明隊長率いる特殊部隊は、人民解放軍の中でも最精鋭として知られていた。山岳戦、市街戦、対テロ作戦、すべての分野で圧倒的な実績を持つ部隊だった。その7名が、一人の生存者も残すことなく全員行方不明になったという事実は、道師連にとっても大きな衝撃だった。
「
呉継明が、一際小柄な老人に声をかける。楊灵仙上尉——通称『
身長は152センチと小柄で、古い中国服に身を包んでいる。四川省峨眉山出身で、まるで仙人のような風貌をしているが、実際は道師連の霊的戦力の要でもある。彼女の風水術と占星術の能力は、科学では説明のつかない現象を正確に予測し、敵の位置を特定することができた。
「まあまあ、そうですねえ」
楊が古い羅盤を手に取りながら、飄々とした口調で答える。その羅盤は明時代に作られた骨董品で、表面には無数の漢字と記号が刻まれている。一見すると古い装飾品にしか見えないが、実際は極めて精密な霊的計測器として機能していた。
呉継明が楊婆婆に対してだけは敬意を払う理由は単純だった。彼女の能力が、これまで数々の不可能とされた任務を成功に導いてきたからだ。政府要人の居場所の特定、テロリストの隠れ家の発見、敵軍の作戦の事前察知。すべて楊の霊的感知能力によるものだった。
「龍脈の乱れは確実に日本列島全体に拡がっております。震源は間違いなく富士山麓の青木ヶ原樹海でございます」
楊が羅盤の針の動きを注意深く観察しながら続ける。
「しかし、その『原因』は既にそこを離れておりますねえ。まあまあ、随分と移動が早いようで」
「具体的な場所は特定できるか?」
呉継明の声に緊張が走る。
「古来より伝わる『尋龍点穴』の秘術を用いれば可能でございます」
楊が羅盤を使って複雑な計算を始める。羅盤の針が不規則に動き回り、時には完全に静止し、時には激しく振動する。一般人には理解不能な現象だが、楊道士にとってはすべてが意味のある情報だった。
「王隊長以下7名の生年月日、失踪推定時刻、青木ヶ原の地理的条件。これらを組み合わせた占星術的計算により、『原因』の潜伏先を割り出せます」
楊婆婆の計算は、現代科学とは全く異なる原理に基づいていた。個人の生年月日から導き出される運命の線、死亡時刻と星座の位置関係、地形と龍脈の相互作用。これらすべてを総合的に分析することで、超常的存在の居場所を特定するのが尋龍点穴の術だった。
呉継明の表情が引き締まる。
「結果は?」
「世田谷区、でございますねえ」
楊が羅盤の最終的な指示を確認しながら答える。
「富士からの龍脈が東京湾に向かう途中で屈折する地点。そこに強い『異質な気』が集まっております」
楊の風水術による分析は、科学的な観測では検出できない霊的な「気の流れ」を読み取ることができる。特に人間の死に関わる「痕跡」や「異質な存在」については、まるで灯台のように明確に感知可能だった。
龍脈とは、中国古来の風水思想における大地の生命力の流れを表す概念だが、楊道士の術においては実際に測定可能な物理的現象として扱われていた。
「ただし、注意が必要でございます」
楊の表情が曇り、声に警戒の色が混じる。
「この気は、単純な怨霊や妖怪のものではございません。複雑で、知的で、そして——極めて狡猾でございます」
楊が羅盤をしまいながら続ける。
「まあまあ、学習し、成長し続けているようですねえ。王隊長たちが遭遇した時よりも、確実に強くなっております」
その言葉に、道師連のメンバー全員の顔が緊張で強ばった。成長する敵。それは最も厄介な相手だった。
だが彼らの使命は明確だった。日本国内に潜伏する超常的存在の確保または無力化。中国の国家安全保障にとって脅威となる存在を、密かに排除することだった。そして、可能であれば、その超常的能力を研究・解析し、中国軍の戦力向上に活用すること。
成田空港から東京都心へ向かうリムジンバスの中で、呉継明は窓の外に流れる日本の風景を眺めながら、これから始まる作戦の困難さを改めて実感していた。
相手は未知の超常的存在。しかも学習能力と成長能力を持つ。通常の軍事作戦とは全く異なる戦いになるだろう。
しかし、道師連は中国四千年の歴史が生み出した最強の異能部隊だった。道教の神秘と現代の軍事技術を融合させた戦力は、これまで数々の不可能を可能にしてきた。
今回も必ず任務を完遂する。それが呉継明の、そして道師連の誇りだった。
◇◇◇
富士山麓の地下深く、一般の地図には記載されていない巨大な施設がある。神域保全機構本部——日本古来の霊的防衛システムの中枢だった。
地下5階、中央制御室。天井の高さは15メートルもある巨大な空間に、最新の電子機器と古式ゆかしい呪術道具が奇妙な調和を見せながら設置されている。壁一面を覆う巨大なメインスクリーンには、日本列島全体の龍脈マップがリアルタイムで表示されていた。
通常であれば、龍脈は安定した青い光を放ち、日本列島を縦横に走る美しい光の網目を形成している。それは一千年以上にわたって日本の霊的安定を支えてきた、見えない生命線だった。
しかし今、その龍脈が激しく赤く点滅し、まるで日本列島全体が発熱しているかのような異常な状態を示していた。特に富士山を中心とした関東地方の龍脈は、これまでに観測されたことのないレベルで乱れており、制御室内のアラームが断続的に鳴り響いている。
「神宮寺機構長、新宿での事案報告が上がっています」
当直の職員が、深刻な表情で報告する。30代前半の男性で、神域保全機構に入職して8年になるが、これほど深刻な霊的異常は初めて経験していた。手に持つ報告書のページが、緊張で微かに震えている。
「新宿駅周辺で発生した集団ヒステリー事件の最終報告書が完成しました」
神宮寺機構長は80歳を超える高齢だが、背筋をまっすぐに伸ばして革張りの椅子に座っていた。白髪を丁寧に撫でつけ、深い皺が刻まれた顔には、長年にわたって超常現象と対峙してきた経験と知恵が宿っている。
彼の家系は平安時代から続く陰陽道の正統な継承者であり、神域保全機構の前身となる組織の創設にも関わっていた。現代の科学技術と古代の呪術を融合させた、日本独自の霊的防衛システムの設計者でもある。
「報告しろ」
神宮寺の声は、年齢を感じさせない力強さを持っていた。
「表向きは原因不明の集団パニックとして処理されました。マスコミ発表では『地下鉄の電気系統故障による停電と換気システムの不調』として報告済みです」
職員がデータファイルを開きながら説明する。パソコンの画面には、新宿駅構内の詳細な見取り図と、事件発生時の時系列データが表示されている。
「実際は一級怪異による大規模な霊的攻撃でした。新宿地下街の古龍穴——江戸時代から封印されていた霊的要所に潜んでいた存在が、龍脈の異常に反応して覚醒、活性化しました」
古龍穴とは、龍脈の交差点に形成される霊的なエネルギーの集積地点だった。通常は神社や寺院によって適切に管理されているが、都市開発の過程で忘れ去られたり、封印が緩んだりすることがある。
「新宿駅利用者約300名に対する同時精神攻撃を実行していました。影響を受けた市民は、強烈な恐怖感と絶望感に襲われ、30分間にわたって意識を失いました」
一級怪異。それは神域保全機構の分類システムにおいて、一般市民に対して直接的な生命の危険をもたらす、極めて強力な超常存在を表す指定だった。最高危険度の特級に次ぐ脅威レベルで、通常は複数の退魔師による連携作戦が必要とされる。
「討伐結果は?」
神宮寺が身を乗り出すように尋ねる。
「成功しました。ただし、今回の成功は櫻井詩織の能力に完全に依存していました」
職員が別のファイルを開き、12歳の少女の写真を表示する。櫻井詩織——神奈川県から転校してきたばかりの小学6年生だが、その能力は経験豊富な退魔師たちをも上回るレベルだった。
「詩織の霊的感知能力により、地下深部の複雑な構造に隠れていた怪異の本体位置を正確に特定できました。通常の感知術では、新宿の地下街は電磁波や人間の生体エネルギーが複雑に入り混じっているため、怪異の正確な位置把握は極めて困難です」
職員が新宿地下街の立体構造図を表示する。JR、私鉄、地下鉄の複数路線が複雑に交差し、さらに地下商店街や駐車場が多層構造を形成している。現代の迷宮ともいえる複雑さだった。
「さらに、詩織の『悪意遮断』の能力で怪異の精神攻撃を完全に無効化し、退魔師たちが本格的な浄化術を実行できました。彼女がいなければ、被害は数百名規模に拡大し、最悪の場合は死者も出ていたでしょう」
神宮寺の表情に驚きの色が浮かぶ。
「12歳の少女が、一級怪異相手に?」
「はい。詩織の能力は我々の予想を遥かに上回っていました。特に『悪意遮断』の能力は理論的に説明が困難で、まるで怪異の攻撃そのものが存在しなかったかのような完璧な防御でした」
職員が別のデータを表示する。グラフには、怪異の攻撃力と詩織の防御力の数値が比較されているが、防御力の数値は測定上限を振り切っている。
「問題は、この怪異が異常な進化を遂げていたことです。過去の記録と比較すると、通常の一級怪異とは明らかに異なる、未知の特性を示していました」
画面に表示された比較データは衝撃的だった。通常の一級怪異の能力値と比べて、今回の怪異は全ての項目で2倍から3倍の数値を示している。
「まるで何かに触発されて、短期間で急激に力を増したかのような——」
「龍脈の異常と関連があるということか?」
神宮寺の声に緊迫感が増す。
「その可能性が極めて高いと判断されます。青木ヶ原の件以降、全国各地で怪異の活性化が報告されています。東北地方では山の神が暴走し、関西では古い血統の鬼が復活の兆候を見せています」
日本列島全体で霊的バランスが崩れている。それは一千年以上にわたって維持されてきた霊的生態系の根本的な変化を意味していた。
神宮寺は深いため息をついた。その息には、長年の経験から来る深い憂慮が込められていた。
龍脈の乱れが、既存の霊的存在に影響を与えている。これは神域保全機構が想定していた事態だったが、その規模と深刻さは予想を遥かに上回っていた。まるで日本列島そのものが、何らかの巨大な変化に向けて準備を始めているかのようだった。
「櫻井詩織の詳細な報告はどうなっている?」
神宮寺が椅子から立ち上がりながら尋ねる。
「はい。新宿の怪異討伐での活躍により、彼女の霊能力は確実に特級レベルであることが判明しました」
別の職員が報告書を手に取り、詳細なデータを読み上げる。
「12歳という年齢にも関わらず、一級怪異の精神攻撃を完全に遮断し、さらに本体位置を正確に特定する能力を持っています。今回の討伐は、実質的に詩織の能力によって成功したと言えるでしょう」
櫻井詩織。一見すると普通の子供だが、生まれながらに強力な霊能力を持つ天才的な退魔師だった。
神域保全機構では、全国の霊能力者を常時監視しており、特に優秀な人材については早期からの接触を図っている。詩織もその対象の一人だったが、今回の新宿での活躍で、彼女の重要性は飛躍的に高まった。
「さらに重要な報告があります」
職員が慎重に報告を続ける。声のトーンが一段と深刻になった。
「櫻井詩織の転校先である世田谷で、異常反応の報告がされています」
神宮寺の顔が青ざめた。
「龍脈の乱れの影響で、学校周辺の霊的環境が不安定化している可能性があります。詩織は特級の感知能力を持っているため、一般人には感じ取れない微細な異常も察知してしまうようです」
詩織が転校した学校の周辺で霊的異常が発生している。それは間違いなく、青木ヶ原の事件と関連している。
「詩織の転校先は?」
「世田谷区立桜丘小学校です。6年生のクラスに転入しました」
世田谷区。それは奇しくも導師連の風水分析で指摘された、異質な気の反応の震源地と完全に一致していた。
「すぐに詩織を連携を。そして桜丘小学校周辺の重点監視を開始する」
神宮寺が立ち上がり、決然とした声で命令を下す。
「これは単なる怪異の活性化ではない。我々がこれまで経験したことのない、全く新しい脅威が学校周辺に潜伏している可能性がある」
制御室内の職員たちが、慌ただしく動き始める。緊急事態プロトコルが発動され、全国の神域保全機構支部に警戒レベル最高の指示が送られる。
一千年以上にわたって日本の霊的平和を守ってきた神域保全機構が、未知の敵に対する本格的な対応を開始した瞬間だった。
◇◇◇
富士山麓の樹海に隣接した平坦地に設置された臨時指揮所では、青木ヶ原事件以来継続している日米合同調査チームが、新たな展開を迎えていた。
巨大な軍用テントの内部は、最新の電子機器と通信設備で埋め尽くされている。人工衛星からのリアルタイム映像、気象観測データ、放射線測定値、電磁波スペクトル分析。科学技術の粋を集めた観測システムが、24時間体制で青木ヶ原周辺を監視していた。
テントの奥では、警視庁捜査一課の加藤修三警部が、複数のモニターを前に黙々と作業を続けていた。65歳のベテラン刑事で、定年まで3ヶ月というキャリアの最終盤に、人生最大の難事件に遭遇していた。
加藤の経歴は警察官として模範的なものだった。地域の交番勤務から始まり、刑事課、組織犯罪対策部、そして捜査一課へ。35年間で担当した事件は数百件に及び、その解決率は警視庁内でもトップクラスだった。特に連続殺人事件や組織犯罪の捜査では、その粘り強さと直感力で数々の難事件を解決してきた。
しかし、今回の青木ヶ原事件は、これまでの常識が全く通用しない超常的な事件だった。物的証拠は皆無、目撃者も存在しない、そして10名の行方不明者についての手がかりすら掴めない状態が続いていた。
「異星生命体の捜査は完全に行き詰まっている」
グレイ少佐が重苦しく報告する。その声には、長年の軍歴の中でも稀に見る困難な状況への苛立ちが込められていた。
「研究所跡からの物的証拠は皆無。7名の中国特殊部隊員と研究者3名の行方も依然として不明。現場の放射線レベルは正常値に戻ったが、それ以外に分析可能な痕跡は一切残されていない」
作戦卓に広げられた青木ヶ原の航空写真には、無数の赤いマーカーが打たれている。捜索範囲、発見された微細な証拠品、目撃情報の地点。しかし、それらのマーカーは事件の全体像を描き出すには程遠い、断片的な情報でしかなかった。
高峰一等陸尉が資料を整理しながら付け加える。
「自衛隊の捜索活動も限界に達しています。青木ヶ原の地形的特性上、これ以上の大規模捜索は困難です」
青木ヶ原樹海は、その名の通り樹木が密生した天然の迷宮だった。GPS機器でさえ正確な位置測定が困難な場所が多数存在する。加えて、地下には複雑な溶岩洞窟群が形成されており、完全な捜索は物理的に不可能に近かった。
「延べ200名の隊員を投入し、ヘリコプター、ドローン、地中探査レーダーまで使用しましたが、行方不明者の手がかりは発見できませんでした」
鳳がタブレットから顔を上げる。
「龍脈の異常も続いていますが、パターンが掴めませんねぇ」
鳳のタブレット画面には、全国の電磁波観測ステーションから送られてくるデータがリアルタイムで表示されている。通常であれば規則的なパターンを示すはずの地磁気データが、今は完全に不規則な変動を続けていた。
「神域保全機構からの情報提供も限定的です。彼らの観測システムは我々とは全く異なる原理に基づいているため、データの相互検証も困難な状況です」
その時、加藤警部が振り返った。
「皆さん、ちょっと興味深いもんを発見しました」
加藤警部が、ベテランらしい落ち着いた口調で全員が注目する。彼は過去数日間、樹海周辺の監視カメラ映像を徹底的にチェックしていた。地道で時間のかかる作業だったが、35年の刑事経験が何かを見逃すことを許さなかった。
デジタル捜査技術が発達した現代でも、最終的には人間の目と直感に頼る部分が大きい。特に異常事件の場合、コンピューターでは検出できない微細な違和感を、経験豊富な刑事が発見することがある。
「研究所が破壊される前後の監視カメラ映像を精査してましてね、非常に気になる人物がおるんです」
加藤警部がメインモニターのリモコンを操作し、鮮明な映像を表示する。画面には、樹海への入口付近に設置された防犯カメラの映像が映し出された。
映像の日時表示は「2025年11月27日 23:07」。研究所が破壊される約5時間前の時刻だった。
「この少年です。背格好からおそらく中学生。研究所が破壊される前の晩、夜の11時頃に樹海に入ってる」
画面には、制服を着た中学生が重い足取りで樹海に向かう姿が映っていた。街灯の明かりに照らされたその表情は絶望に満ち、肩を落とした姿勢は、まるで死に場所を求めて歩く人間のような雰囲気を漂わせている。
少年は時々立ち止まり、振り返るような仕草を見せていた。まるで現世への最後の別れを惜しんでいるかのような、悲痛な表情が映像からも読み取れた。
「自殺志願者でしょうか?」
高峰一等陸尉が質問する。
「そう見えますな。足取りも重く、表情も死を覚悟したような顔をしている」
加藤警部が映像を一時停止し、少年の表情をクローズアップする。
「青木ヶ原は自殺の名所としても知られていますからね。年間30件程度の自殺が発生している。この少年も、その一人だと最初は思いました」
加藤警部が映像を少し進める。
「ところが、翌朝になるとですね——」
加藤警部が映像を切り替える。今度は同じカメラの翌朝の映像だった。日時表示は「2025年11月28日 06:15」。
「同じ少年が樹海から出てきました。時刻は朝の6時15分。研究所が破壊されてから3時間後です」
今度の映像では、同じ少年が全く異なる雰囲気を見せていた。背筋がピンと伸び、歩調にはっきりとしたリズムがあり、自信に満ちた動きを見せている。前夜の絶望的な表情は消え去り、まるで新しい人生を歩み始めたかのような清々しささえ感じられた。
「これがね、単純な気分の変化とは思えないんですよ」
加藤警部が画面を指差しながら説明する。
「夜中は猫背で、足を引きずるような歩き方でした。ところが朝は背筋をピンと伸ばして、軍人さんのようにきびきびと歩いている」
グレイ少佐が身を乗り出す。長年の軍歴で培われた観察眼が、映像の異常性を即座に認識していた。
「軍人のような歩き方?」
「そうです。35年この仕事をやってますが、歩幅、姿勢、目線の動き、一晩でここまで人が変わるものは見たことがない」
加藤警部が映像を コマ送りで再生し、少年の歩行パターンを詳しく解析する。
「特に注目していただきたいのは、周囲への警戒の仕方です。夜中の映像では、うつむき加減で周囲への注意が散漫でした。しかし朝の映像では、一定間隔で左右を確認し、後方への警戒も怠らない。まるで敵地を行軍する兵士のような動きです」
鳳が眼鏡を押し上げながら呟く。
「確かに……まるで別人のようですねぇ」
「でしょう? そして、このタイミングが非常に重要なんです」
加藤警部が時刻表示を指差す。
「研究所の爆発が午前3時12分。行方不明事件が同時刻。そして少年の異常な変化がその前後。全部同じ時間帯に起きてる。これが偶然だと思いますか?」
テント内に重い沈黙が流れる。4人の専門家が、それぞれの分野の知識を総動員して、この異常な一致の意味を考えていた。
グレイ少佐が立ち上がる。その動作には、重大な決断を下す指揮官としての威厳が込められていた。
「日米合同調査チームの最優先ターゲットをこの少年に設定する」
彼の声には、数々の戦場で培われた指揮官としての重みがあった。
「最高機密レベルでの継続監視だ。この少年が、青木ヶ原事件の鍵を握っている可能性が極めて高い」
高峰一等陸尉が即座に反応する。
「監視チームの編成と、詳細な身元調査を開始します」
鳳もタブレットを操作しながら続ける。
「こっちも内閣府の情報ネットワークを使って、詳細な調査を実施します」
加藤警部も頷く。
「警視庁の捜査網を使って、少年の日常的な行動パターンを調べてみます。学校、家庭、交友関係、すべてを洗い出しましょう」
定年間近のベテラン刑事の直感と、米軍将校の戦場経験、自衛隊の分析力、そして特災調の超常現象知識が結集した瞬間だった。
4つの組織の専門知識が融合し、これまで見えなかった事件の輪郭が、少しずつ明らかになり始めていた。
テントの外では、捜索活動を続ける隊員たちの声が聞こえている。しかし、真の脅威は既に彼らの包囲網から抜け出し、東京の日常に完璧に紛れ込んでいることを、誰も知らなかった。
神崎優という名前の14歳の少年の正体が、地球外生命体との融合によって生まれた超常的存在であることを、この時点では誰も想像していなかった。
◆◆◆
同じ頃、世田谷区の閑静な住宅街にある神崎家では、デヴォラントが何事もないかのように夕食の準備を手伝っていた。
キッチンで野菜を刻みながら、彼の超感覚は既に自分を取り巻く状況の変化を鋭敏に察知していた。
中国の異能部隊、日本の霊的防衛組織、そして日米合同捜査チーム。
三つの巨大な力が、それぞれ異なるアプローチで、静かに包囲網を形成し始めている。
しかし、デヴォラントの口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
追跡者たちがいくら包囲網を狭めようとも、彼らが相手にしているのは、単なる14歳の中学生ではない。人間の常識を遥かに超えた存在だった。
狩りの時間が、ついに始まろうとしていた。
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