第二章:神崎優
008 第7話:新たな器
青木ヶ原樹海の朝は、死のような静寂に包まれていた。
夜が明けると共に、薄い霧が樹木の間を縫うように漂い、足音さえも吸い込んでしまいそうな深い静けさが辺りを支配している。午前4時を過ぎたというのに、樹海の奥深くは薄暗く、まるで夜がそのまま居座っているかのようだった。古い杉や檜の巨木が空を覆い隠し、わずかに差し込む朝日も霧に遮られて、幻想的でありながら不気味な光景を作り出している。
この森には特有の静寂があった。都市部の騒音とは正反対の、あまりにも深い静けさ。鳥のさえずりも虫の音も、ほとんど聞こえない。まるで生命が息を潜めているかのような、重苦しい空気が漂っている。
それはデヴォラントにとって、かつて経験したことのない環境だった。38年間の人生は常に雑音に満ちていた。工場の機械音、隣人の騒音、街の喧騒。しかし、この樹海の静寂は異質だった。死を選ぶ者たちが最後に聞く静けさ。
デヴォラントは、ウォルシュ博士の外見のまま樹海の奥を歩いていた。昨夜の研究所爆破から約1時間が経過している。既に消防車や警察車両のサイレンが遠くから聞こえており、救援部隊が現場に到着していることは明らかだった。
王隊長の軍事知識を活用し、デヴォラントは追跡を避けるルートを慎重に選択していた。風向きを読んで音の伝播方向を計算し、陳の索敵回避術で足跡を残さないよう注意深く移動している。湿った落ち葉の上を歩く際も、体重のかけ方を調整して音を最小限に抑える。枝を避け、茂みを迂回し、まるで影のように森の中を進んでいく。
だが、デヴォラントの意識は追跡回避よりも別のことに向いていた。
新たな「器」を探している。
現在のウォルシュ博士の外見では、人間社会への潜入は不可能だ。38歳のアメリカ人女性研究者という外見は、あまりにも目立ちすぎる。彼女は政府の研究チームの一員であり、顔写真は必ず公的データベースに登録されている。街中に現れれば、監視カメラに映った瞬間に身元が割れてしまう。
中国特殊部隊の面々も同様だ。彼らは軍事機関に所属する人物であり、大手を振って街中を歩ける存在ではない。特に王隊長のような高官クラスともなれば、失踪が発覚した時点で国際的な捜索が開始される可能性がある。
必要なのは、誰にも知られていない人物の身体だった。社会的に「存在しない」人間。記録にも残らず、誰も探さない存在。
樹海は自殺の名所として知られている。毎年、数十から数百人がこの森で命を絶つ。その中には身元不明のまま発見される遺体もある。家族から見放され、社会から疎外され、最後の最後まで誰にも気づかれない人々。
そのような遺体なら、捕食によるリスクは最小限に抑えられるはずだった。
死者の記憶は生者ほど強烈ではないだろう。残留思念による精神的汚染の危険性も低いはずだ。そして何より、「存在しない人物」として完璧に社会に紛れ込むことができる。
デヴォラントは王隊長の軍事知識を活用し、効率的な探索パターンで樹海を歩いていた。風向きを読み、腐敗臭の微細な変化を感知し、鳥や動物の行動パターンから遺体の在り処を推定する。特殊部隊の索敵技術は、この場面でも十分に有効だった。
森の中を歩きながら、デヴォラントは周囲の環境を詳細に観察していた。
足元には厚く積もった落ち葉があり、踏みしめるたびに湿った土の匂いが立ち上がる。所々に朽ちかけた倒木が横たわり、そこには苔や茸が繁殖している。木々の幹には時折、白いロープや布切れが結ばれており、それらが何を意味するのかは明らかだった。
この森で命を絶った者たちの痕跡。
ロープが結ばれた木の下には、時として花束や缶ジュース、手紙などが置かれている。家族や友人が供えたものもあれば、同じ境遇の人々が共感を込めて置いたものもあるだろう。
デヴォラントにとって、それらは単なる情報でしかなかった。人間の感情的な行動パターンの一つ。死者への哀悼や共感といった、非効率的だが普遍的な行為。
38年間の人生で、デヴォラント自身がそうした哀悼を受けたことは一度もなかった。誰も自分の死を悼まないだろうし、墓参りに来る人間もいない。それが現実だった。
だからこそ、この森の光景は妙に親近感を覚えるものでもあった。社会から疎外され、誰にも必要とされず、最後は独りで死んでいく。それは、デヴォラントがたどるはずだった運命と何ら変わりがない。
午前5時頃、デヴォラントは異変を察知した。
風上から、かすかに死臭が漂ってくる。新鮮な死臭だった。腐敗がそれほど進んでいない、恐らく死後24時間以内の遺体がある。
趙医師の医学知識により、死臭の特徴から死後経過時間を推定することができた。まだ腐敗による強烈な臭いではなく、体液の変化による軽微な異臭。つまり、極めて新鮮な遺体である可能性が高い。
臭いの方向に歩を進めると、太い木の枝にロープが結ばれ、その下に倒れている人影が見えた。ロープは切れており、遺体は地面に横たわっていた。
近づいて詳しく観察すると、14歳程度の少年だった。
学校の制服を着ており、身長は160センチ程度。痩せ型で、顔立ちは整っているが、どこか陰鬱な印象を与える表情で事切れている。首の縄跡と、切れたロープの状況から、首吊り自殺を図ったもののロープが切れて落下したものと推定される。
制服は私立中学校のもので、比較的高級な生地と仕立てであることが分かる。靴も革製で、決して安価なものではない。つまり、ある程度裕福な家庭の子息である可能性が高い。
遺体の状態を詳しく観察すると、死後経過は約6時間程度。つまり昨夜の午後11時頃、研究所で戦闘が行われる数時間前に、この少年はここで命を絶ったことになる。
死因は間違いなく縊死だが、ロープが切れたために地面に落下している。恐らく少年の体重に対してロープの強度が不足していたか、結び方が不適切だったのだろう。死後にロープが切れ、遺体が地面に落ちたものと推定される。
デヴォラントは少年の持ち物を調べた。
学生鞄の中身、財布、携帯電話。そして遺書と思われる手紙。
学生鞄には教科書やノートが入っていたが、特に目立つのは大量の漫画本とゲーム雑誌だった。いわゆる「オタク系」の趣味を持つ少年のようだ。ノートには授業の内容ではなく、アニメキャラクターの落書きが大量に描かれている。
財布の中の学生証には「
学生証の写真を見ると、生前の優は今よりもやや明るい表情をしていた。しかし、それでもどこか影のある、自信のなさそうな少年だったことが伺える。
財布の中には現金が約5,000円入っていた。中学生にしては少ない金額ではないが、恐らく衝動的に家を出てきたのだろう。
遺書は几帳面な文字で書かれていた。
『もう疲れました。家でも学校でもいらない子です。誰も僕がいなくなっても困らないと思います。迷惑をかけてすみませんでした』
短い文章だったが、絶望の深さが滲み出ている内容だった。しかし、デヴォラントにとっては感傷的な同情を覚えるようなものではない。むしろ、この少年の置かれた状況を冷静に分析する材料でしかなかった。
携帯電話のメッセージ履歴を確認すると、執拗ないじめの痕跡が見て取れた。「キモオタ優」「死ねよクソガキ」「明日学校来るな」といった悪質なメッセージが、複数のアカウントから大量に送られている。
メッセージの内容は段階的にエスカレートしていた。最初は軽い悪口程度だったものが、次第に具体的な脅迫や中傷に変化している。特に直近1週間のメッセージは特に悪質で、優が精神的に追い詰められていく過程が手に取るように分かる。
特に「
蛇島龍牙からのメッセージが最も多く、内容も最も悪質だった。単なる悪口を超えて、優の家族に関する中傷や、身体的特徴への攻撃、さらには死への示唆まで含まれている。明らかにリーダー格の人物だ。
猪俣翔真のメッセージは蛇島に追随する形で、やや知性的な嫌がらせが多い。優の趣味や学業成績を馬鹿にする内容が中心で、計算された悪意を感じさせる。
鰐淵美桜のメッセージは数は少ないが、女性特有の陰湿さがある。外見や服装への中傷、「キモい」「臭い」といった直接的な人格攻撃が多い。
家族とのやり取りも確認した。父親、義母、義姉、義妹との会話記録がある。しかし、その内容は全体的に冷淡で、優が家庭でも孤立していたことが伺える。
父親とのやり取りは月に数回程度で、それも事務的な連絡ばかり。「今日は遅くなる」「明日は出張」といった業務連絡のようなメッセージが大半を占めている。父親から優への関心は皆無に等しい。
義母とのやり取りも形式的なものばかり。「お疲れ様」「ご飯食べなさい」といった表面的な気遣いはあるが、そこに温かみは感じられない。むしろ義務感で送られているような印象だ。
義姉との会話はほとんど存在しない。たまに既読スルーされたり、短い返事が返ってくる程度で、明らかに優を疎ましく思っている。
義妹だけが優しく接していたが、なぜか優の対応はそっけなく、むしろ距離を置こうとしているような印象だった。義妹からは「お兄ちゃん大丈夫?」「一緒にゲームしない?」といった気遣いのメッセージが送られているが、優の返事は「大丈夫」「忙しい」といった短いものばかり。
デヴォラントはこの少年の遺体が完璧な「器」であることを確信した。
14歳という若い年齢、身元の詳細、そして何より、周囲から疎外されていたという状況。この少年として社会に戻っても、違和感を持たれる可能性は低い。
むしろ、「いじめが原因で性格が変わった」という説明で、あらゆる変化を正当化できる。14歳という年齢は、思春期の真っ只中であり、急激な性格変化も不自然ではない。
さらに重要なのは、この少年が置かれていた社会的地位だった。東京都世田谷区の住所、私立中学校への通学、高品質な制服や持ち物。これらすべてが、ある程度裕福な家庭環境を示している。
デヴォラントは少年の遺体に手を置いた。
捕食の過程で、神崎優の記憶が流れ込んできた。
12年間の短い人生。幼い頃から疎外感を感じ続けた記憶。両親の離婚、父親の再婚、新しい家族の中での居場所のなさ。
優の記憶は断片的に流れ込んでくる。3歳の頃の両親の激しい喧嘩。5歳の時の離婚。7歳で父親が恵美と再婚した時の困惑。新しい家族の中で、自分だけが異質な存在であることを感じ続けた日々。
特に印象的だったのは、義妹との関係だった。外見は愛らしい小学6年生で、誰に対しても優しく振舞っている。家族の中では唯一、優に対して親切にしてくれる存在だった。
しかし、優の記憶には不可解な疎外感が残されていた。
『なんで花音だけ僕に優しいんだろう』
優の記憶の断片に、そんな思いが残されていた。
『きっと同情してるだけだ。僕なんか、誰にも愛されるわけない』
『いつか花音も僕を嫌いになる。みんなそうだった』
優の記憶には、義妹への感謝と同時に、どこか疑念めいた感情も含まれていた。なぜ自分にだけ優しくするのか。本当に心から親切にしてくれているのか。そうした疑問が、常に優の心を支配していた。
しかし、デヴォラントはこれらの記憶を「弱者特有の被害妄想」として処理した。力がない者は常に疑心暗鬼になる。周囲の善意すら疑ってしまう。それは38年間の自分自身の経験からも理解できる心理パターンだった。
より重要なのは、神崎家の社会的地位だった。
父親は大手広告代理店「NEXUS」の重役。義母は有名女優。義姉はモデルとして活動している。
この家には明確に権力があった。影響力があった。政財界との繋がりもある。
広告代理店の重役という立場は、単なる会社員ではない。大企業の宣伝戦略を左右し、メディアの内容にも影響を与える。政治家や財界人との人脈も豊富で、社会に対する間接的な影響力は計り知れない。
有名女優である義母の存在も重要だった。芸能界での地位は、単なる知名度を超えて、世論形成や文化的影響力に直結する。政治家や経済界のVIPとの交流もあり、そこから得られる情報や人脈は極めて価値が高い。
義姉のモデル業界での活動も、現代社会においては軽視できない影響力を持つ。SNSでのフォロワー数、ファッション業界での地位、若者文化への影響。これらすべてが、現代的な権力の一形態だった。
それなのに優は最下層に置かれていた。再婚によって作られた家族の中で、実の息子でありながら最も疎外されている。家族の権力と富に囲まれながら、それらを享受することは許されなかった。
しかし、デヴォラントなら違う。このリソースを完全に活用できる。
学校でのいじめの記憶も流れ込んできた。クラスでの立場、友人関係の欠如、教師たちの無関心。そして、いじめグループによる日常的な嫌がらせの詳細。
特に蛇島龍牙という少年は、父親が地元の有力者らしく、半グレ集団「BLACK WOLVES」との繋がりもあるという情報があった。建設業界での影響力を背景に、地域の政治や経済にも手を伸ばしている一族の御曹司。
興味深い情報だった。半グレ集団との繋がりという要素は、デヴォラントにとって社会の権力構造を理解する上で参考になる可能性がある。
猪俣翔真については、表面上は裕福な生活を送っているが、家庭内での複雑な事情を抱えているという印象があった。優に対して特に知的な嫌がらせを仕掛けてくることが多く、何らかのコンプレックスを抱えている可能性がある。
鰐淵美桜の家庭は、父親が中小企業の経営者で、母親が専業主婦という典型的な中流家庭。美桜自身は容姿に恵まれ学内でも人気があるが、それゆえか他者を見下す傾向があり、特に優のような「オタク系」の生徒に対して強い嫌悪感を示している。
捕食が完了すると、デヴォラントの外見は14歳の神崎優に変化した。制服姿の中学生。一見すると、ごく普通の少年である。
しかし、その内部には10人分の記憶と知識、そして一人の男の怨念が渦巻いている。
新しい身体の感覚を確認する。14歳の肉体は、これまで使用していた大人の身体とは大きく異なっていた。身長は低く、筋力も劣る。しかし、同時に軽やかさと敏捷性を感じることができた。
声も変わっていた。少年らしい、やや高めの声質。これまでの低い男性の声や、ウォルシュ博士の女性の声とも違う、独特の音域だった。
デヴォラントは優の記憶から自宅の場所を把握していた。世田谷区の高級住宅地にある一戸建て。電車で約3時間程度の距離だ。
だが、すぐに帰宅するわけにはいかない。優は昨夜家を出てから、丸一日が経過している。何の説明もなしに現れれば、怪しまれる可能性がある。
適切な口実が必要だった。
デヴォラントは優の記憶を詳しく検討した。この少年は家族にも学校にも居場所がなかった。しかし、だからこそ、一晩程度の外泊は珍しいことではないはずだ。
実際、優の記憶には過去にも何度か無断外泊をした経験があった。ゲームセンターで夜を明かしたり、ネットカフェで時間を潰したり。家族は心配するどころか、むしろ安堵していた節さえある。
「友達と夜遅くまで遊んでいて、そのまま泊まった」
そういう説明で十分だろう。どうせ家族は優の交友関係に興味を持っていない。詳しく追及される可能性は低い。
午前7時。デヴォラントは樹海を出て、最寄りの駅に向かった。
樹海の出口付近には、予想通り自衛隊の車両が展開していた。研究所の爆発を受けて災害派遣部隊が出動し、周辺の安全確認と捜索活動を行っているのだろう。王隊長の軍事知識により、こうした展開は容易に予測できていた。
迷彩塗装された自衛隊の車両が数台停まっており、隊員たちが慌ただしく活動している。無線の交信音や、装備品の金属音が朝の静寂を破っている。
「君、こんなところで何をしていた?」
迷彩服を着た自衛官がデヴォラントに声をかけた。20代後半の若い隊員で、階級章から3等陸曹と判断される。顔立ちは真面目そうで、職務に忠実な印象を与える。
「あの、僕...死のうと思って来たんですけど、怖くなって...」
デヴォラントは神崎優らしい、おどおどした声で答えた。頭を下げ、制服の袖で目を拭うような仕草も加える。少年らしい弱々しさと、自殺を考えるほど追い詰められた者の哀れさを演出する。
「は?」
自衛官は一瞬、面食らったような表情になった。目の前の中学生が口にした内容に、どう反応すべきか戸惑っている様子だった。
「自殺しようと思ったんです。でも、いざ来てみたら怖くて...それで引き返そうと...」
デヴォラントは涙声を作りながら続けた。優の記憶から引き出した感情的な要素を巧みに活用し、説得力のある演技を展開する。
「ああ、そういうことか」
自衛官の表情が呆れたようなものに変わった。時々いるのだろう、こうした中途半端な「自殺志願者」が。真剣に死を考えているわけではなく、単なる現実逃避や注意引きの手段として樹海を訪れる者たち。
自衛官にとっては、さほど珍しい事例ではないようだった。
「君、何歳だ?」
「14歳です。中学2年生です」
「親は知ってるのか?」
「いえ……内緒で来ました」
デヴォラントは素直に答えた。実際、神崎家の人々は優の行動を詳しく把握していない。今頃になって行方不明に気づいているかどうかも怪しい。
自衛官は深いため息をついた。
「もう帰れ。こんなところで遊んでる場合じゃないぞ。今日は事故があったんだ」
「事故?」
デヴォラントは知らないふりをして聞き返した。
「気にするな。とにかく、二度とこんなところに来るんじゃない。分かったか?」
自衛官の声には、職業的な責任感と同時に、若者への心配も込められていた。しかし、それ以上深く関わるつもりはないことも明らかだった。
「はい……すみませんでした」
デヴォラントは深々と頭を下げた。
自衛官はもう一度呆れたような表情を見せると、他の隊員のところに戻っていった。14歳の少年の「自殺未遂」など、彼らにとってはそれほど重要な案件ではないのだろう。災害対応という本来の任務に比べれば、些細な問題に過ぎない。
デヴォラントは何事もなかったかのように、その場を後にした。
神崎優として、新たな人生を始める時が来た。
しかし、この新しい「器」には一つ問題があった。優の残留思念が、予想以上に強く残っていることだった。
歩きながら、デヴォラントの意識に優の感情が混入してくる。
(家に帰りたくない……誰も僕を愛してない……なぜ生まれてきたんだろう)
煩わしい感情の雑音だった。デヴォラントの冷静な思考を阻害する、不純物のような存在。これまで捕食した人々の記憶は、もっと整理されていて扱いやすかった。しかし、優の場合は感情的な要素が強すぎる。
特に、いじめの記憶に触れると、優の屈辱と恐怖の感情が激しく反応する。蛇島龍牙の名前を思い浮かべただけで、身体が震えるような恐怖が襲ってくる。
(やめて……もうやめて……なんで僕だけ――)
デヴォラントは苛立ちを覚えた。
これは明らかに異常事態だった。これまで捕食した10人の記憶に、これほど強い残留思念はなかった。中国特殊部隊の兵士たちも、研究者たちも、もっと統制の取れた記憶だった。
死者の記憶は通常、もっと静かなものだったはずだ。
なぜ神崎優の場合だけ、これほど強く残っているのか。
恐らく、死ぬ直前まで抱いていた強烈な感情が、記憶に深く刻まれているのだろう。絶望、屈辱、恨み、孤独感。これらの感情が、死後も残留思念として残り続けている。
優は死ぬ瞬間まで、激しい感情の渦に飲み込まれていた。家族への失望、いじめへの恐怖、将来への絶望。それらが混然一体となって、記憶の奥底に焼き付いている。
しかし、これは看過できない問題だった。デヴォラントが上位の存在として行動するためには、こうした雑音は完全に排除する必要がある。
特に、いじめグループと再び接触する際、優の感情に支配されるリスクがある。それは戦略的に大きな弱点となる。恐怖に支配された判断は、必ず失敗を招く。
デヴォラントは冷静に分析した。
この残留思念は、優の死に直結した記憶と関連している。つまり、その原因となった要素を除去すれば、残留思念も消失するはずだ。
具体的には、いじめグループの完全な排除。蛇島龍牙、猪俣翔真、鰐淵美桜。この3人を処理することで、優の感情的な束縛から解放される。
デヴォラントは決断した。
まずは、この残留思念の原因となっているいじめグループを処理する必要がある。それによって優の感情的な雑音を除去し、純粋にデヴォラント自身の意識だけで行動できるようになる。
これは復讐ではない。障害の除去だ。
デヴォラントが喰らう側に回るための、必要な前処理に過ぎない。
午前8時頃、デヴォラントは樹海を完全に出て、最寄りの駅に向かった。
神崎優として、新たな人生を始める準備が整った。
しかし、その前に確認すべきことがあった。この新しい身体での行動パターン、人間社会での適応性、そして何より、効率的な残留思念の除去方法。
すべては計画的に、段階的に進める必要がある。
デヴォラントの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
一人の男の長い復讐が、ついに本格的に始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます