007 幕間:消失と目覚め
――青木ヶ原樹海研究施設跡 午前3時45分
ウォルシュ博士の緊急警報から30分後、在日米軍横田基地から派遣されたUH-60ブラックホークが青木ヶ原樹海上空に到達した。
ローター音が夜の静寂を切り裂く中、パイロットが無線で報告する。
「ベース、こちらレスキュー・ワン。目標地点を視認。大規模な火災が発生中」
操縦席から見下ろす光景は、まさに地獄絵図だった。地下5階建ての巨大な研究施設があったはずの場所は、今や巨大なクレーターと化している。施設の残骸が瓦礫の山となって積み重なり、その上を赤い炎が踊り狂っていた。
「建造物は……完全に倒壊しています。内側に向かって崩れ落ちたような形状です」
副操縦士が詳細を報告する。爆発のパターンから見て、これは外部からの攻撃ではなく、内部からの計画的な爆破と推測された。
「生存者の確認を急げ。降下準備」
ヘリコプターは樹海の空き地に着陸し、完全装備の救援チームが現場に急行した。しかし、彼らの足音が瓦礫を踏みしめる頃には、この地獄のような光景を作り出した真の犯人は、既に樹海の奥深くへと姿を消していた。
深い森の中に響くのは、遠ざかっていく炎の音と、時折崩れ落ちる瓦礫の音だけ。そして、何かが確実に変わってしまったという、言いようのない不安感だった。
◆◆◆
――現場指揮所 午前6時
夜明けの光が樹海を照らし始める頃、研究施設跡から1キロほど離れた場所に設置された臨時指揮所には、緊張した空気が漂っていた。
大型テントの中央には折り畳み式の作戦テーブルが置かれ、その周囲に通信機器、地図、そして夜を徹して収集された現場の写真が散乱している。コーヒーの匂いと電子機器の熱気が混じり合い、徹夜作業の疲労感が充満していた。
米軍のウィリアム・グレイ少佐が現場指揮を執っている。60歳を迎えようとする初老の軍人で、湾岸戦争からアフガニスタン、イラクまで数々の戦場を経験してきた。白髪交じりの短髪は軍人らしく刈り上げられ、日焼けした顔に深く刻まれた皺が、彼の歩んできた厳格な軍歴を物語っている。
迷彩服の胸ポケットには読書用の眼鏡が入っており、手には常にボールペンを握っている。部下からの報告を聞きながら、メモ帳に要点を書き留める癖がある。長年の軍歴で身につけた、情報を整理し、冷静に状況を判断する習慣だった。
「状況を報告しろ」
グレイ少佐の低く響く声に、テント内の空気が一層引き締まった。彼の声には、どんな状況でも動じない軍人特有の威厳があった。
防衛省から派遣された高峰香織一等陸尉が、きびきびとした動作で報告書を差し出す。28歳の女性自衛官で、防衛大学校を主席で卒業した秀才だった。身長165センチ、引き締まった体格で、常に背筋を伸ばしている。短めに切り揃えた黒髪と、意志の強さを表す鋭い眼差しが印象的だった。
制服は完璧に着こなされ、一分の隙もない。靴は鏡のように磨かれ、階級章も完璧に取り付けられている。彼女の全てが、エリート自衛官としての誇りと責任感を物語っていた。
「現場の捜索が完了いたしました」
高峰一等陸尉の声は、報告に相応しい明瞭さと簡潔さを備えている。
「遺体は計13名を発見しております。内訳は警備員6名、研究補助員4名、清掃員3名です。身元はすべて確認済みです」
彼女が差し出した報告書には、発見された遺体の詳細なリストが記載されている。名前、年齢、所属、発見場所、死因の推定。すべてが軍の様式に従って整理されていた。
「研究員の遺体は?」
グレイ少佐が眉をひそめる。
「田中雅人主任研究員、山田健太研究員、ジェニファー・ウォルシュ博士の3名。いずれも発見されておりません」
高峰一等陸尉の表情に困惑の色が浮かぶ。火災の温度を考えれば、遺体が完全に灰化することも考えられるが、他の職員の遺体は発見されているのに、研究員だけが消失しているのは不自然だった。
「外部からの侵入痕跡は?」
「確認されています」
高峰一等陸尉が現場写真を指し示す。
「建物の北西側外壁に爆破痕跡があります。また、内部の配電盤が意図的に破壊されています。単独犯ではなく、組織的な侵入作戦と推定されます」
「侵入者の詳細は?」
「人数、装備、素性については、現段階では不明です。証拠となる遺体や装備品は発見されておりません」
テントの入り口から、内閣府特殊災害対策調整室から派遣された鳳修弥が入ってきた。35歳の官僚で、一見すると人当たりの良い普通の公務員にしか見えない。身長は平均的な175センチ程度、やや細身の体格で、黒縁の眼鏡をかけている。
紺色のスーツは少し皺があり、ネクタイも微妙に曲がっている。カバンから資料を取り出す仕草も、どこかのんびりとしている。しかし、その所属は政府内でも存在を知る者が限られた秘密部署——超常現象対応を担当する特災調だった。
「すみません、遅くなりました」
鳳の飄々とした口調が、緊張したテント内の空気を微妙に和らげる。
「正直なところ、エイリアンは専門外なんですがねぇ」
彼が苦笑いを浮かべながら眼鏡を押し上げる仕草は、どこか学者らしい。
「しかし、人外という括りでは我々の管轄になるかもしれません。とりあえず、オブザーバーとして参加させていただきます」
グレイ少佐が興味深そうに鳳を見つめる。
「特災調とは?」
「内閣府大臣官房特殊災害対策調整室第三課超常現象対応班」
鳳が名刺を差し出しながら、長い正式名称をすらすらと述べる。
「表向きはNBC災害や原因不明災害への対応ですが、実際には……まあ、科学では説明のつかない現象を扱っています」
「何か異常は感知されているのか?」
グレイ少佐の質問に、鳳の表情が真剣になった。眼鏡の奥の目が、鋭く光る。
「実は、そうなんです」
鳳がカバンから小型のタブレット端末を取り出す。画面には複雑な波形グラフが表示されている。
「富士の龍脈が乱れてます。今朝から全国的に異常な変動が観測されてましてね」
高峰一等陸尉が興味深そうに身を乗り出す。
「龍脈とは?」
「霊的なエネルギーラインです」
鳳がタブレット画面を二人に見せながら説明する。
「おそらく爆発の影響だと思いますが、通常の爆発ではここまで広範囲に影響が出ることはありません」
画面に表示されているのは、日本列島全体を覆う複雑な線の集合体だった。太い線が富士山を中心として放射状に延びており、その一部が激しく点滅している。
「これは何を意味している?」
グレイ少佐が画面を凝視する。長年の軍歴の中で、科学では説明のつかない現象を何度も目撃していた。ベトナムの密林で遭遇した謎の光、アフガニスタンの山岳地帯で兵士たちが報告した異常な体験。それらの記憶が、鳳の説明を頭ごなしに否定することを躊躇わせていた。
「エネルギーの大きな変動です。何らかの強力な存在が移動した、あるいは覚醒したときに発生する現象に似てますねぇ」
鳳がタブレットを操作すると、時系列のグラフが表示された。午前3時30分頃から急激に波形が乱れ始めているのが分かる。
「研究対象の行方は?」
グレイ少佐が核心に触れる。
「不明です」
高峰一等陸尉が重苦しく答える。
「田中主任、山田研究員、ウォルシュ博士の3名と共に完全に行方不明です。火災による完全消失では説明がつきません」
テント内に重い沈黙が流れた。外からは、まだ燻り続ける施設跡からの煙の匂いと、捜索活動を続ける隊員たちの声が聞こえてくる。
機密研究施設への組織的侵入、研究対象と関係者の失踪、そして全国規模での異常現象。どれをとっても、通常の事故や犯罪では説明できない異常事態だった。
「日米合同調査チームを編成する」
グレイ少佐が決断を下す。彼の声には、長年の軍歴で培われた指揮官としての重みがあった。
「最高機密レベルでの継続調査だ。関係者は必要最小限に留める」
「了解!」
高峰一等陸尉が敬礼する。
「特災調のほうでも、龍脈への影響も含めて全国の異常現象監視を強化しますよ」
鳳がタブレットを閉じながら答える。その飄々とした口調の奥に、深刻な懸念が滲んでいた。
三人の調査官は、それぞれ異なる専門分野から、同じ結論に達していた。今回の事件は、人類がこれまで経験したことのない、全く新しい脅威の始まりかもしれない。
◆◆◆
――某国諜報機関 午後2時
北京にある人民解放軍総参謀部第七研究所は、表向きは軍事技術研究を行う普通の施設として機能している。しかし、その地下深くには、中国政府が決して公にしない秘密の部署が存在していた。
第七研究所の地下3階にある作戦室は、最新の電子機器で埋め尽くされている。壁一面を覆う大型スクリーンには、世界各地の情報が リアルタイムで表示されている。衛星画像、通信傍受記録、各国の軍事動向。中国の諜報網が収集したあらゆる情報が、この部屋に集約されていた。
作戦室の中央には楕円形の会議テーブルが置かれ、その周囲に革張りの椅子が配置されている。天井の照明は薄暗く設定され、画面の光だけが室内を青白く照らしていた。
潘局長が会議テーブルの上座に座り、手元の報告書を眺めていた。50代後半の男性で、人民解放軍の制服ではなく、濃紺の人民服を着用している。眼鏡をかけた知的な外見だが、その目の奥には冷徹な計算高さが宿っている。
30年以上を諜報活動に捧げてきた彼にとって、失敗した作戦の事後処理は日常茶飯事だった。しかし、今回の事件は明らかに異質だった。
「部隊からの連絡は?」
潘局長が、向かい側に座る副官に尋ねる。副官は40代前半の軍人で、技術分析を専門としている。彼の前には複数の端末が置かれ、様々なデータが表示されている。
「最後の通信から18時間が経過しています。予定では12時間前に帰投しているはずですが」
副官の声には、明らかな困惑が含まれていた。王隊長率いる特殊部隊は、中国軍の中でも最精鋭の部隊として知られている。過去10年間で、50回以上の秘密作戦を成功させてきた実績がある。
「王志明隊長以下7名の精鋭が、全員行方不明ということか」
潘局長が報告書のページをめくる。そこには、今回の作戦に参加した特殊部隊員の詳細なプロフィールが記載されている。年齢、経歴、専門技能、家族構成。すべてが潘局長の記憶に刻まれている。
爆破専門家の陳偉強、電子戦のエキスパート李建国。それぞれが各分野のトップクラスの技能を持つ精鋭たちだった。
「田中雅人からの最終報告を再確認しろ」
「研究対象の知能レベルは動物以下、危険性は低いというものでした」
副官が別の端末を操作し、田中雅人から受信した最後の報告書を表示する。
『標本1号の知的能力は極めて低く、動物の本能的反応のみを示している。軍事的脅威となる可能性は皆無に等しい』
潘局長は眉をひそめた。危険性が皆無なら、なぜ7名の精鋭が全員行方不明になったのか。報告書の内容と現実の結果が、あまりにもかけ離れている。
「施設の爆破についての詳細は?」
「日本の公式発表では、気象観測所での事故とされています。しかし、我々の分析では内部からの計画的な爆破と推定されます」
副官がスクリーンに衛星画像を表示する。爆発前後の施設の様子が比較されている。完全に内側に向かって崩壊した建物の形状が、内部爆破の証拠を示していた。
「さらに重要なのは、これです」
副官が別のデータを表示する。それは中国国内の風水観測網から送られてきた異常報告だった。
「龍脈への影響も確認されています」
潘局長の表情が変わった。龍脈——中国古来の風水思想における大地のエネルギーライン。現代科学では迷信として扱われることが多いが、中国軍の一部では実在するものとして研究が続けられていた。
特に第七研究所では、龍脈を軍事利用する可能性について、極秘の研究を行っていた。気功、風水、道教の秘術。これらの古来の技術を現代の軍事技術と融合させる試みが、20年以上にわたって続けられている。
「我が国の風水観測網でも、日本列島全体での異常な気の流れが確認されています」
副官が詳細なデータを示す。中国本土から朝鮮半島、そして日本列島にかけて、龍脈の大きな乱れが観測されている。震源は明らかに青木ヶ原樹海の研究施設跡だった。
「これは……」
潘局長は重大な決断を迫られていた。通常の軍事技術では対処できない超常的な脅威。これに対抗するには、通常部隊とは全く異なるアプローチが必要だった。
彼の脳裏に、ある部隊の存在が浮かんだ。
「
副官の顔が緊張した。導師連——人民解放軍が1980年代から秘密裏に編成してきた異能部隊。その存在を知る者は、軍内部でも極めて限られている。
中国古来の道教、気功、風水、符籙術。これらの秘術を軍事技術として体系化し、超常現象に対抗する能力を持つ特殊部隊。通常の兵器では対処できない相手と戦うために編成された、中国軍最後の切り札だった。
「部隊長の呉継明少将には、どのように説明いたしますか?」
「すべて事実を報告する」
潘局長が立ち上がる。
「通常兵器では対処不可能な超常的存在による、王隊長以下7名の全滅。そして研究対象自身による脱出の可能性」
潘局長の表情が険しくなった。
「通常の軍事作戦では対処不可能ということか」
「その通りです。導師連による超常作戦が必要と判断されます」
潘局長は長考した。この決断は、中国の国家機密レベルを一段階上げることを意味する。導師連の投入は、中国政府が超常的脅威の存在を公式に認めることに等しい。
しかし、7名の精鋭を失った現実を前に、他に選択肢はなかった。
「特殊部隊の件は最高機密とする。王隊長以下7名は、任務中の事故で殉職として処理」
中国政府としても、この件に深く関わることは外交的にリスクが大きすぎる。日本の主権を侵害する形での作戦であり、国際問題化すれば中国の立場は悪化する。
しかも、異能部隊の存在自体も最高機密だ。導師連の活動が露呈すれば、中国の超常技術研究が国際的に明るみに出てしまう。
「ただし」
潘局長が付け加える。
「導師連による第二次作戦を準備する。
中国の異能部隊は、密かに日本への潜入準備を開始することになった。
目標は不明。正体も不明。しかし、通常の軍事部隊を全滅させ、龍脈にまで影響を与える超常的存在が、日本のどこかに潜んでいる可能性。
それは中国にとって、従来の軍事常識を超えた未知の脅威だった。そして、その脅威に対抗するためには、同じく超常的な力を持つ者たちを送り込むしかない。
作戦室のスクリーンに、導師連のメンバーリストが表示された。気功の達人、風水師、道術の使い手。通常の軍人とは全く異なる、神秘的な力を持つ戦士たちの名前が並んでいる。
中国と日本の間で、新たな、そして極めて特殊な戦いが始まろうとしていた。
◆◆◆
――神域保全機構 午後6時
富士山麓の傾斜地に建設された神域保全機構の本部は、外見上は普通の宗教施設にしか見えない。木造の本堂、石灯籠が並ぶ参道、手入れの行き届いた日本庭園。訪れる者があれば、由緒ある神社の研修施設だと思うだろう。
しかし、その地下には最新鋭の観測設備が隠されている。表向きは宗教法人として登録されているが、その真の目的は日本列島を縦断する霊的エネルギーライン——龍脈の監視だった。
神域保全機構。その起源は平安時代の陰陽寮にまで遡る。安倍晴明をはじめとする陰陽師たちが築いた霊的国防システムが、時代を超えて受け継がれてきた組織。明治4年に設立された神祇省の流れを汲み、戦後は表向きを宗教組織に偽装しながら、密かに活動を続けている。
平成7年の内閣府特災調設立時に連携協定を締結し、現在は政府の影の支援を受けながら、日本の霊的安全保障を担っている。一般国民はその存在すら知らないが、政府の最高レベルでは重要な国防組織として認識されていた。
地下の中央制御室は、古来の呪術と最新テクノロジーが融合した空間だった。壁一面を覆う液晶モニターには複雑な波形グラフが表示される一方、室内の四隅には千年以上の歴史を持つ呪具が配置されている。
数十台のコンピュータが龍脈のデータを解析する傍らで、香炉から立ち上る線香の煙が、古式ゆかしい雰囲気を醸し出していた。科学と呪術、現代と古代が共存する、世界でも類を見ない施設だった。
中央制御室の最奥にある椅子に、神宮寺機構長が座っていた。80歳を超える高齢だが、その背筋はまっすぐに伸びている。白髪を丁寧に撫でつけ、深い皺が刻まれた顔には、長年にわたって超常現象と対峙してきた強靭な精神力が刻まれている。
濃紺の作務衣を着用し、首には古い勾玉のペンダントをつけている。手には、代々受け継がれてきた陰陽師の印章を握りしめていた。彼は陰陽道の正統継承者にして、内閣府特災調の非常勤顧問でもある。
現代の日本で、霊的な脅威に対する最高の権威の一人だった。
「状況はどうだ?」
神宮寺の声は年齢を感じさせない力強さを持っている。80年の人生で培われた威厳が、言葉の一つ一つに込められていた。
当直員の若い男性が、複数のモニターを指差しながら報告する。彼は神域保全機構の二代目職員で、大学で情報工学を学んだ後、この組織に参加した。現代的な観測技術と古来の霊的知識を両方習得した、新世代の霊的技術者だった。
「午前3時30分頃から、全国的に龍脈の乱れが観測されています」
メインスクリーンに表示された日本列島の地図上で、無数の光線が複雑に入り組んでいる。それぞれが龍脈を表しており、通常は安定した青い光を放っている。しかし、現在は多くの線が赤く点滅し、異常な状態を示していた。
「特に富士の主龍脈から発生した波動が、東海道沿いに拡散中です。過去50年間の観測史上、最大級の変動を記録しています」
神宮寺の表情が険しくなる。富士山は日本最大の霊山であり、そこから発する龍脈は日本列島全体の霊的バランスを支える重要な要素だった。その主龍脈に異常が発生するということは、日本全体の霊的安定が脅かされることを意味する。
「震源地は?」
「青木ヶ原樹海の北西部です。政府の秘密研究施設があった場所と一致しています」
神宮寺は内心で舌打ちした。政府の秘密研究施設の存在は、神域保全機構でも事前に把握していた。そして、そこで異星生命体の研究が行われていることも、特災調との連携により既に報告を受けていた。
しかし、その研究がこれほどまでの霊的影響を及ぼすとは予想していなかった。異星の存在が、地球の霊的システムに干渉する可能性については、理論的には考慮していたが、実際に発生するとは思わなかった。
「他の地域の状況は?」
「東京、大阪、名古屋の都市部で軽微な変動が確認されています。人口密集地域では、人間の想念が龍脈に影響を与えるため、変動が増幅される傾向があります」
当直員が別のモニターを指す。
「そして——」
画面には九州と東北の地図が表示されている。
「九州の阿蘇、東北の恐山でも反応が観測されています。いずれも強力な霊場として知られる場所です」
神宮寺の顔が青ざめた。阿蘇と恐山は、富士山と並んで日本三大霊山と呼ばれる場所だった。これらの霊場が同時に反応を示すということは、尋常ではない事態を意味している。
「まさか、全国規模での龍脈共鳴か?」
龍脈共鳴。それは強大な霊的存在が覚醒した時に発生する、極めて稀な現象だった。過去の記録では、平安時代の鬼の復活、戦国時代の妖怪大戦、明治維新の際の国体変化の時に観測されている。
いずれも日本の歴史に大きな変革をもたらした時代の転換点だった。そして今、同じ現象が再び発生している。
「すぐに特災調に連絡を。鳳君に直接報告だ」
神宮寺が即座に指示を出す。緊急事態には、官僚的な手続きを踏んでいる余裕はない。
「はい!」
当直員が専用の暗号化回線で特災調に連絡を取る。神域保全機構と内閣府特災調の間には、24時間体制の直通回線が設置されている。平時は機構が全国の霊的異常データを収集し、科学的分析を特災調が担当。政府への報告は特災調が窓口となる、完璧な分業体制だった。
しかし、今回のような大規模異常の場合は、即座に合同対策本部が設置される。両組織が持つ知識と技術を結集して、事態に対処するシステムが既に構築されていた。
別の当直員——40代の女性研究員が、困惑した表情で報告する。彼女は民俗学の博士号を持ち、古文書の解読を専門としている。神域保全機構には、こうした学術的専門家も多数在籍していた。
「神宮寺機構長、古文書の記録と照合したのですが……」
「何が分かった?」
「今回の龍脈変動のパターンが、平安時代の『陰陽師秘録』に記載された『異界門開』の記述と酷似しています」
神宮寺の表情が一層厳しくなった。『異界門開』——異世界との境界が開かれるという、陰陽道において最も恐れられる現象の一つだった。
「詳細を報告しろ」
「平安時代の記録によれば、『天より降りし異形のもの、大地の龍脈を乱し、三山同時に鳴動せしめ、異界の門を開かんとす』とあります」
女性研究員が古文書のデジタル画像を画面に表示する。達筆な漢文で書かれた文章が、現在の状況を予言しているかのように見えた。
「さらに、『異形のものは人の心を喰らい、その力を己のものとし、やがて天下を覆さん』との記述もあります」
神宮寺は深いため息をついた。古文書の記述が現実と一致している。これは単なる偶然ではない。
室内に警報音が響く。新たな異常が検出されたことを示すアラームだった。
「何事だ?」
「東京都心部で、局所的な龍脈の暴走が発生しています!」
若い当直員が慌てて報告する。
「新宿駅周辺の龍脈が異常な高エネルギー状態を示しています。人間の想念エネルギーと何かが共鳴しているようです」
メインスクリーンに東京の詳細地図が表示される。新宿を中心として、同心円状に異常エネルギーが拡散している様子が確認できた。
「これは……」
神宮寺の顔が蒼白になった。
「何者かが都市部に潜入している可能性があります。しかも、龍脈を意図的に操作する能力を持つ存在が」
制御室内の空気が一層緊張した。青木ヶ原の事件が単なる施設爆破事故ではなく、より大きな脅威の始まりであることが明確になった。
神宮寺が立ち上がる。
「緊急事態宣言を発令する。全国の支部に最高警戒態勢を指示せよ」
「了解いたします」
「特に都市部での異常現象の監視を最優先に。人口密集地域で龍脈が暴走すれば、数百万人の生命に関わる」
神宮寺が窓の外の富士山を見上げる。夕暮れの空に浮かぶ霊峰は、いつもと変わらない美しい姿を見せていた。しかし、その内部では確実に異常事態が進行している。
「そして」
神宮寺が振り返る。
「特災調との合同対策本部の設置を急げ。これは一組織だけでは対処できない規模の異変だ」
古来より日本を守護してきた霊的な結界システムに、重大な亀裂が生じている。その亀裂から、人類がかつて経験したことのない脅威が這い出してくるのは、もはや時間の問題だった。
神域保全機構の職員たちが慌ただしく動き回る中、神宮寺は静かに祈りを捧げた。
千年以上にわたって日本を守り続けてきた陰陽道の力が、再び試される時が来た。
現代の科学技術と古来の霊的技術を融合させた神域保全機構が、真価を発揮すべき時が。
そして、まだ見ぬ強大な敵との戦いが、静かに幕を開けようとしていた。
制御室のモニターには、刻一刻と変化する龍脈の異常データが表示され続けている。日本列島全体を覆う霊的エネルギーネットワークが、未知の存在によって侵食されつつある現実を示しながら。
神宮寺の手にある印章が、微かに温かくなっているのを彼は感じていた。千年前の陰陽師たちが込めた霊力が、新たな脅威の接近を警告している。
夜の帳が降りる中、日本各地で異常現象の報告が続々と届き始めていた。
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