006 第6話:観察の終わり
最初に反応したのは山田研究員だった。
「い、いやだ!近づくな!」
28歳の若い研究者は恐怖に支配され、縛られた手足を必死に動かしながら観察室の隅へと逃げようとした。
「助けて!誰か助けて!」
山田の甲高い悲鳴が観察室に響く。だが、この地下深くに彼を助けてくれる者は誰もいない。戦える人間は全てデヴォラントに捕食されているのだから。
デヴォラントは慌てることなく、ゆっくりと山田に歩み寄った。この瞬間、デヴォラントの外見は劉の姿をしていた。中国人特殊部隊員の顔で、しかし表情は冷酷そのものだった。
「逃げても無駄だ」
デヴォラントの手が山田の肩に触れた瞬間、捕食が開始された。
「あああああああ!」
山田の身体が銀色の粘体に吸収されていく。最初は接触部分の肩から、次に胸部、そして全身へと広がっていく。
山田の28年間の記憶が激流のように流れ込んでくる。分子生物学への情熱、研究者としての夢、恋人への想い、両親への感謝。そして、この3日間でデヴォラントを観察していた時の科学的興味と恐怖。
分子構造に関する専門知識、実験手法、研究データの解析技術。すべてがデヴォラントの知識として統合されていく。
「山田君!」
田中主任が絶叫する。目の前で部下が溶けるように消えていく光景は、彼の理性を限界まで追い詰めていた。
山田研究員の捕食が完了すると、デヴォラントは田中主任に向き直った。
45歳の研究者は、冷や汗を滴らせながら必死に笑みを浮かべようとしていた。
「ま、待ってくれ!」
田中主任の声は上ずっている。
「は、話をしよう。そうだ、きっと君は話が分かる存在だ。なにせ私の研究対象だったのだから、君の価値を一番理解しているのは私だ」
デヴォラントは興味深そうに田中主任を見つめた。山田の外見に変化しながら、静かに答える。
「価値?」
「そうだ!君は世紀の大発見だ!」
田中主任は興奮気味に身を乗り出した。この状況でも、まだ自分の立場を利用できると考えているらしい。
「私が君を発見したんだ。私は君の研究責任者として、君について最も詳しい。だから君にとって私は有用な存在のはずだ」
「有用?」
「私は宇宙生物学の権威だ。東京大学で首席卒業、博士号も取得している。学会にも人脈がある。君が人間社会に出ていくなら、私のような専門家の知識が必要になるだろう」
田中主任は自分の経歴を必死にアピールしている。まるで就職面接で自己PRをしているかのような必死さだった。
「それに、私は既に中国側にも協力していた。つまり私は最初から君の味方だったんだ。アメリカの研究者や日本政府とは違う。私は君を理解し、味方になろうとしていた」
デヴォラントの表情が冷たくなる。
「味方?」
「そうだ。私は君の能力を高く評価していた。だからこそ中国側に情報を提供し、君をより良い環境で研究してもらおうと——」
「研究?」
デヴォラントの声に、氷のような冷たさが込められた。
「俺を研究材料として中国に売り渡そうとしていた、ということか」
「い、いや、そうじゃない」
田中主任が慌てて否定する。
「君の価値を正当に評価してもらうための——」
「俺の価値、か」
デヴォラントが山田の顔のまま、静かに笑った。その笑みには、底知れぬ冷たい怒りが込められている。
「面白いな。散々無価値だと扱われてきたものが、少し力を手に入れた途端に『価値がある』と」
「そ、それはどういう——」
「お前は俺を理解なんかしていない」
デヴォラントが田中主任に一歩近づく。
「お前が理解していたのは、俺の能力だけだ。中身など、どうでもよかった」
「違う!私は君の知性も——」
「知性?」
デヴォラントが嘲笑う。
「お前は俺を『動物以下の知能』と評価したじゃないか。その評価を中国にも報告していたはずだ」
田中主任の顔が青ざめる。確かに、研究報告書には「知能レベル:動物以下」と記載していた。
「あ、あれは誤解で——」
「誤解?」
デヴォラントの声が低くなる。
「俺が愚者を演じていたことも気づけなかったくせに、何が専門家だ」
「分かった! 分かったから、これからは適切に評価し直す! 君の真の知性を認めて、対等な関係を——」
「対等?」
デヴォラントが首を傾げる。
「散々踏みにじられ、最後はお前のような研究者が、俺を実験動物として『研究』していた」
「私は君を傷つけるつもりはなかった!研究は人類の進歩のために——」
「人類の進歩?」
デヴォラントが歩みを止める。
「俺がこの世界に何かしてもらったか?」
田中主任が言葉に詰まる。
「散々踏みにじられ、利用され、最後は実験動物として扱われた」
デヴォラントの声に、底知れぬ怨念が込められている。
「人類の進歩のために俺が犠牲になる理由など、どこにもない」
「で、でも——」
「俺はもう、誰の都合にも合わせない」
デヴォラントが田中主任の前に立つ。
「俺は俺のためだけに存在する」
田中主任の顔に絶望が浮かぶ。しかし、彼は最後の希望にすがった。
「君の目的は何だ? 破壊なのか? 復讐なのか? ならば私が協力する! 私には人脈がある! 政府の中にも、学会にも! 君の目的の手助けをすることができる!」
デヴォラントは首を振る。
「俺は破壊者でも復讐者でもない」
「じゃあ——」
「俺はもう、誰にも頼らない」
デヴォラントが田中主任に手を伸ばす。
「お前の知識さえあれば、俺一人で十分だ」
「待ってくれ!」
田中主任が必死に叫ぶ。
「私はまだ君に有用だ!生きていれば、もっと多くの情報を提供できる!私を殺すより生かしておく方が——」
「お前の情報は全て記憶として手に入る」
デヴォラントの手が田中主任の胸に触れた。
「そして、お前の人格は不要だ」
田中主任の絶叫が観察室に響く中、九人目の捕食が開始された。
45年間の研究者人生、異星生物学の専門知識、実験計画の立案能力、そして研究所の組織構造に関する詳細な情報。すべてがデヴォラントに吸収されていく。
そして重要なことに、田中主任の記憶から中国との接触に関する詳細な情報も得られた。情報提供の経緯、中国側の担当者、今後の計画。デヴォラントにとって極めて価値のある情報だった。
最後に残ったのはウォルシュ博士だった。
38歳のアメリカ人研究者は、恐怖の中でも毅然とした態度を崩していなかった。両手は縛られているが、その眼差しは挑戦的ですらあった。
「Fascinating...」
ウォルシュ博士が英語で呟く。
「完璧な捕食と再構築能力。記憶と知識の統合。そして人格の選択的保持」
デヴォラントは田中主任の外見のまま、彼女を見下ろした。
「最後まで研究者か」
「そうよ。これが私の本質だから」
ウォルシュ博士は恐れることなく言い放った。
「でも、あなたは興味深い矛盾を抱えている」
「矛盾?」
「あなたは人間を憎んでいるけれど、同時に人間でもある」
デヴォラントが興味深そうに眉を上げる。
「どういう意味だ?」
「あなたの行動パターンを観察していたの。捕食する際の選択基準、会話の内容、感情の表出」
ウォルシュ博士が科学者らしい冷静さで分析を続ける。
「あなたは間違いなく異星の生命体よ。物質の分子操作能力、生体情報の完全コピー、これらは地球の生物学では説明不可能」
「それで?」
「でも、その中に人間の意識が宿っている。おそらく人間の意識が異星生命体の機能を乗っ取ったのでしょう」
デヴォラントの表情が変わった。鋭い指摘だった。
「あなたは『俺』と言う。これは明らかに人間男性の一人称。そして人生への言及。つまり、あなたは異星生命体に意識を乗っ取られた人間ではなく、人間の意識が異星生命体を乗っ取った存在」
「よく分析できているな」
デヴォラントが感心したように言う。
「他にも何か分かったことは?」
「あなたの心は非常に人間的よ。感情の無い異星生命体なら、もっと効率的に動くでしょう。でも、あなたは個人的な感情に基づいて行動している」
ウォルシュ博士の分析は的確だった。
「そして、あなたは孤独を感じている」
「孤独?」
「ええ。誰にも理解されなかった人間の孤独。それが今も続いている。異星の能力を手に入れても、本質的な孤独は解消されていない」
デヴォラントは数秒間沈黙した。そして、ゆっくりと口を開く。
「なぜそんな分析をする?」
「科学者としての好奇心よ。そして——」
ウォルシュ博士が微笑む。
「あなたが完全な怪物ではないことを証明したかったから」
「怪物ではない?」
「あなたは確かに危険な存在よ。でも、その奥に人間らしさが残っている。それは希望でもあり、弱点でもある」
デヴォラントが興味深そうに聞いている。
「続けろ」
「あなたが完全に人間性を失ったなら、もっと効率的に行動するはず。でも、あなたは感情的になる。怒り、恨み、復讐心。これらは非効率的だけれど、人間らしい感情」
「それがなぜ弱点になる?」
「感情は予測可能性を生むから。論理的な機械なら対策は困難だけれど、感情的な存在なら、その感情をコントロールすることで対処できる可能性がある」
ウォルシュ博士の分析は、デヴォラントの本質を鋭く突いていた。
「そして、あなたは認められたがっている」
「認められたい?」
「ええ。誰にも認められなかった人間の承認欲求。それが今も残っている。だからこそ、私の分析を最後まで聞いている」
デヴォラントの表情に微かな動揺が浮かぶ。
「怪物なら、分析など聞かずにすぐ捕食するでしょう。でも、あなたは対話を求めている。理解されたいという人間的な欲求があるから」
「興味深い分析だ」
デヴォラントが認める。
「お前は確かに優秀な研究者のようだな」
「ありがとう。それで——」
「だが、一つ重要なことを見落としている」
デヴォラントの表情が冷たくなった。
「俺が認められたがっているのは確かだ。だが、もう人間に認められる必要はない」
「どういう意味?」
「俺は俺自身で完結した存在になった。他者の承認など不要だ」
デヴォラントがウォルシュ博士に一歩近づく。
「お前の分析には感謝する。確かに俺の本質を理解していた」
「それなら——」
「だからこそ、お前の知識が必要だ」
デヴォラントの手がウォルシュ博士に向けて伸ばされる。
「Wait!」
ウォルシュ博士が英語で叫ぶ。
「お礼に、私だけには真実を教えて」
デヴォラントの手が止まる。
「真実?」
「あなたは何者なの? 本当は」
デヴォラントが静かに答える。
「俺は元々、人間だった」
ウォルシュ博士の表情に驚きが浮かぶ。自分の推測が正しかったことに対する科学者としての興奮。
「青木ヶ原樹海で自殺を図った時、異星の生命体——恐らく情報収集用の端末のようなものと衝突した」
「つまり、あなたは——」
「人間の意識が異星技術を手に入れた存在。その通りだ」
デヴォラントの告白に、ウォルシュ博士は息を呑んだ。
「それは……信じられない……」
「信じる必要はない。数秒後には、お前もその真実を記憶として理解することになるから」
デヴォラントの手がウォルシュ博士に触れた。
「Thank you...」
ウォルシュ博士の最後の言葉と共に、十人目の捕食が開始された。
38年間の人生、バイオテクノロジーの専門知識、遺伝子工学の最新技術、そしてデヴォラント自身に関する詳細な分析データ。すべてがデヴォラントの一部となった。
◇◇◇
10人分の記憶、知識、技能。軍事技術、科学的専門知識、言語能力、戦闘技術、医療知識、通信技術、爆破技術、そして研究施設の詳細な構造。
デヴォラントは38年間の底辺生活では決して得ることのできなかった、膨大な能力と知識を手に入れていた。
しかし、まだ作業は残っている。証拠隠滅だ。
デヴォラントは陳の記憶にある爆破技術を活用することを決めた。研究所を完全に破壊し、自分の存在を知る者を全て消去する。そうすれば、デヴォラントは完全に「存在しない」存在として、人間社会に潜入することができる。
爆破装置の設置は、もはや専門家レベルの技術だった。陳の知識により、建物の構造的弱点を正確に把握している。
地下の主電源室で電気系統の大爆発を誘発し、主要支柱4本を破壊して建物を倒壊させる。研究資料保管庫でデータを完全消失させ、燃料タンクで延焼による完全焼失を図る。
この配置なら建物は内側に崩れ落ち、火災ですべてが灰になる。研究データ、監視映像、DNA痕跡......すべて消失する。
李副隊長のハッキング技術を活用し、外部への通信記録も全て削除した。衛星通信のログ、サーバーのバックアップデータ、クラウドストレージのミラーファイル。デジタル痕跡も完璧に抹消する。
陳の爆破知識とウォルシュの化学技術、そして田中の施設構造に関する情報。これらを組み合わせることで、完璧な証拠隠滅が可能になった。
タイマーを10分に設定。十分な脱出時間だ。
10名の遺体は既に捕食済みで物的証拠はない。血痕や戦闘痕跡も爆破で隠蔽される。監視システムは既にクラッキングで破壊済み。
全ての準備が整った。
デヴォラントは施設の外に出た。研究所は樹海の奥にある。爆発の音は届くかもしれないが、発見されるまでには時間がかかる。その間に樹海の奥で、新しい「人生」の準備をするのだ。
しかし、現在のデヴォラントには新たな問題があった。
外見がウォルシュ博士のままなのだ。この姿では人間社会への潜入は不可能。
ウォルシュ博士は研究チームの一員。彼女の顔は政府機関のデータベースに登録されているだろう。監視カメラに映れば即座に特定される。
特殊部隊の連中も同じだ。王、李、陳......全員が自国の諜報機関に把握されている人物。彼らの姿で移動すれば、「行方不明の人間が現れた」という事態になる。
今回の関係者の顔は絶対に使えない。完全に無関係な人物でなければ……。
だが生きている人間を捕食するのは危険だ。自我侵食のリスクがある。
死体なら安全か?そして、誰にも知られていない死体なら......
デヴォラントは青木ヶ原樹海の特性を思い出した。この場所は自殺の名所として知られている。毎年多くの人が命を絶つ場所。中には身元不明のまま発見される遺体もある。
そうした遺体であれば、捕食によるリスクは最小限に抑えられる。既に死んでいる人間の記憶と人格は、生きている人間ほど強烈ではないはずだ。
午前3時35分。
青木ヶ原樹海の奥深くで、巨大な爆発が発生した。
地下から順次爆発し、建物が内側に崩壊する。燃料タンクの爆発で大火災が発生し、夜空を赤く染める。
デヴォラントは安全な距離から、燃え上がる研究所を眺めていた。
陳の計算通り、建物は完全に倒壊し、火災ですべてが灰になる。デヴォラントがここにいた痕跡は、もうどこにもない。
「さようなら、惨めな過去」
炎を背景に樹海の奥へ消えていくデヴォラント。
これで本当に「死んだ」ことになる。戸籍上の男も、研究対象としての■■も。
次に世間に現れる時は、まったく別の存在として。
デヴォラントは新たな人生を始める準備を整えた。
そしてデヴォラントは、樹海の奥で新たな「器」を探すことにした。
この場所は自殺の名所として知られている。きっと、適切な「器」が見つかるはずだ。
樹海の深部で、デヴォラントは運命的な出会いを待ち望んでいた。
38年間の復讐は、今始まったばかりだった。いた。
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