第20話 廃墟と使者

 ノクターンの奥底で軋む音は、古びた船底が波に軋まされるようでもあり、また、巨大な獣が骨を鳴らして身を捩るようでもあった。

 崩落はもう止められぬ。黒ずんだ梁がひとつ、ふたつと折れ、壁を這うひびは、港の寒風に煽られながら徐々に広がってゆく。


 篠森は栞の肩を抱き、足場の悪い通路を踏みしめた。

 靴底が砕けたガラスを踏むたび、鋭い音が乾いた空気を裂く。その匂いには、火薬の焦げと、血の鉄臭さと、もっと生々しい肉の匂いとが混ざっていた。

 それは人間の死骸から立つものとも、グールが朽ちた後に残す冷たい悪臭とも判じがたい、曖昧で、しかも吐き気を誘うものだった。


 通路の脇には、まだ温もりを失い切らぬ影が転がっている。

 片方は腕を失い、片方は瞳を見開いたまま硬直し、どちらももう、この港の朝日を見ることはない。篠森は視線を逸らし、栞の歩幅に合わせる。

 彼女の体温は不自然なほど低く、肩越しに伝わる呼吸は浅い。額の汗が、戦闘の熱ではなく、内側から削られた体力の証であることを、篠森は肌で感じていた。


 先を行くザンビは、黙したまま周囲を見回している。足取りは確かだが、その背中には油断の欠片もない。

 後方のナユタは、軽やかなはずの歩みをあえて音立てぬよう押さえ、振り返るごとに鋭い目で闇を探っている。

 レニだけが、戦場の残響を背負ったまま、唇に微かな笑みを浮かべていた。それは陽気というよりも、何かを隠す者の笑みだった。


 やがて、崩れた壁の隙間から、港の空が見えた。

 青みを帯びた朝焼けが、灰と煤にまみれた空気の向こうでぼんやりと滲んでいる。外気は冷たく、だが、この廃墟の内部よりははるかに清浄だった。

 篠森は肩に重みを預ける栞を支え直し、港の倉庫群へと足を向けた。


***


 港の倉庫群、その薄曇りの下で待ち構えていたのは、正体の知れぬ一団だった。

 全員が同じ黒と銀の装束をまとい、裾の長い外套の縁には鋭い稲妻のような銀糸の刺繍が走っている。胸元は高く詰まり、喉を覆う金具が鈍く光を反射していた。

 顔の上半分は銀の仮面で覆われ、切れ長の目だけが覗く。その眼差しは海風にも揺らがず、ただ一直線に篠森たちの中央──栞を射抜いている。


 倉庫前の石畳に並び立つ姿は、まるで均一に削られた刃物が何本も突き立っているかのようだった。彼らの足下には塵ひとつない。靴底の先まで磨かれ、黒革に走る光沢がかえって冷たさを際立たせている。

 静止しているのに、全身から押し寄せる圧迫感は、風が港の潮を運んでくるよりも速く、確実に肌を刺した。


 ザンビの表情がわずかに陰る。

 その目に宿ったのは警戒ではなく──諦念に似た色だった。

「……漆黒連盟か」

 低く吐き捨てるような声は、誰に聞かせるでもなく自分自身へ落とす呟きだった。


 篠森はその名に反応しきれず、ただ相手の整然とした佇まいに圧倒されていた。

 背後で、栞の呼吸が一瞬だけ深くなったのを感じる。

 レニが一歩、二歩と前に出た。港の冷えた空気が、彼の金髪をわずかに揺らす。


「漆黒連盟──第3のアーク。経済と秩序の象徴とされる連中だ。人間社会とも密接な繋がりを持つ。……あそこにいるのは、イルバだろう。第4世代にして、血の契約を統べるもの」

 その声は淡々としていたが、どこか礼を尽くす響きが混じっていた。

「彼らは俺の属する灰翼協会とは違うが……敬意は払うべき相手だ」


 そう言いながら、レニは右手を胸に当て、仮面の列の中央に向けて浅く一礼した。礼は簡潔でありながら、明確な儀礼の型を踏んでいる。

 しかし──列の中央、ひときわ背の高い一人は、その動きに一切の反応を見せなかった。


 銀仮面の奥から覗く瞳は、磨かれた石のように無機質で、レニの姿を映しながらも、まるで通り過ぎる景色のひとつに過ぎないかのようだった。

 その静謐な視線がゆっくりと篠森の腕の中の栞に移る。


「……ノクターンの放棄を決定した」

 金属の擦れるような低声が、仮面の奥から響く。

「我らはこの地を去る。その女は、我らの庇護下に置く。血の契約を結び、第七世代として迎え入れる」


 その一言が、港の冷気よりも深く篠森の胸に突き刺さった。

 栞はうつむき、唇を固く閉ざす。

 ザンビは一歩踏み出し、わずかに首を振った。

「……それはこちらの望むところではない」


 港に吹き込む風の音が、一瞬だけ消えたかのように感じられた。

 イルバは視線を動かさないまま、無言でその返答を受け止めていた。


 ザンビの言葉は、海鳴りの向こうに沈んでいったかのようだった。

 イルバは微動だにせず、ただ栞を見ている。仮面の奥から放たれる視線は、温度も質感も持たない。だが、そこには否応なく、返事を促す重みがあった。


「お前がここで生きる道は、我らと共に在ることだけだ」


 イルバの瞳は動かない。

 風も音も押し潰すような沈黙が、その場の全員を包み込む。

 潮の匂いが強くなるにつれ、篠森は無意識に栞を抱く腕に力を込めていた。彼女の肩越しに感じる冷たさは、肉体の消耗だけではない。目の前の存在に引きずられ、体温そのものが失われていくような感覚だった。


「……答えろ」

 低く、しかし揺るぎない声が落ちた。

 問いではない。命令でもない。

 ただ、返答が必然であることを告げる響きだった。


 篠森は腕の中の栞を見た。

 その瞳の奥には、逃げ場を探すような光と、わずかな安堵が同居していた。──救いが差し出されている事実は否定できない。だが、その代償もまた、明白すぎた。


 篠森は息を呑み、声を出そうとした。

 だが、その刹那、背後からレニが一歩進み出る。

「イルバ殿。彼女は、まだ戦いの余波から抜け出せていません。決断を迫るには時期尚早かと」

 その声音は丁寧でありながら、微かに力を込めていた。


 イルバは反応を示さない。

 仮面の奥の瞳が、ただ栞から離れない。

 沈黙の圧がさらに強まり、港の風がその場を避けるように流れを変えた。


 ザンビはその光景を見て、静かに歯を食いしばる。

 この男には言葉が通じぬのか──いや、必要がないのだ。決定権は、栞が口を開くか否かだけに委ねられている。


「……わたしは──」

 栞の声はかすかで、波音に攫われそうだった。

 しかし、その先を言わせまいとするかのように、海から吹き込む風が急に湿り、潮の匂いが一層濃くなる。

 空が低く垂れ込め、厚い雲が陽を覆い隠す。


 篠森の背筋に、氷の刃のような感覚が走った。

 目の端で、倉庫の壁が揺らめく。空気の層がねじれ、そこから黒い縁取りを持つ裂け目のような影が滲み出す。


 足音はない。

 それでも、確実に何かがこちらに近づいてくる。

 誰も口を開かず、ただその“到来”を迎えようとしていた。

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