第19話 崩壊の咆哮

 音が、割れた。

 まるで夜そのものに罅が走ったかのような、乾いた裂音がノクターンの空気を切り裂く。闇の天蓋を裏返すように、眩い光の亀裂が天井や壁を走り、奥から低い唸りが地面を震わせた。黒と紅の影色に沈んでいた街が、瞬きするごとに白い閃光を孕んでいく。


 篠森は刹那、その異様さよりも先に、眼前の第七世代の動きを察知した。

 振動と光が、奴らを狂わせた。瞳が灼けるような紅に染まり、動きはさらに鋭さを増す。


「──くっ!」


 振り下ろされた腕が、鉄の扉を叩き割るような衝撃で篠森を捉える。体が宙に浮き、背から壁に叩きつけられる。肺の奥で何かが潰れたような痛みに、息が詰まった。


「篠森!」


 駆けつけたナユタの声が耳を打つ。だがその背後で、もう一体の第七世代が跳躍する影が見えた。反射で体が動いた。

 自分でも理解できない速さで、ナユタの肩を押し、そのまま前に躍り出る。腕に鈍い衝撃が走り、刃が肉を裂く感触と共に、相手の動きが一瞬鈍る。


「……ッ、立てるか」

「ええ、何とか」


 二人は息を荒げ、距離を取った。だが、ナユタの足取りは重い。昨夜、ンムの状態で戦い抜いた消耗があまりにも大きい。肩で息をしながらも、ナユタは必死に立っている。


「もう動けそうにないな……」

「篠森、あんたこそ」

「俺は……まだやれる」


 そう言った瞬間、壁が轟音を立てて崩れた。破片の向こう、夜の皮膜を裂くように一筋の光が差し込む。鋭く、白い刃のような朝日が空気を斬り、第七世代の皮膚を焦がした。


(……鈍った)


 篠森が踏み込もうとした、その刹那だった。

 ナユタが篠森の肩を掴み、力任せに顔を自分の方へ向けた。

 視界に、褐色の頬と、驚くほど深い光を宿した瞳が迫る。

 黒曜石の奥に、幾層もの想いが溶けていた。

「……目、閉じて」


 唇が重なり、熱い煙が肺へ流れ込む。

 湿りを帯びた苦味と、香木を焦がしたような甘い芳香。それが喉を焼き、胸の奥に渦を巻いた瞬間、篠森は足元から何かが逆流するような感覚に襲われた。

 血が沸き、筋肉が膨張する。視界が研ぎ澄まされ、色彩が異様に鮮やかになる。ナユタの褐色の肌に浮かぶ汗の粒が、金粉のように輝いて見えた。


「これが……」

「ンムだ。やれるか?」

「ああ、やれる」


 ナイフを握り直す。感覚が鋭く、相手の重心の移動まで見える。

 一体目が吠えて突っ込んでくる。刃が閃き、頸椎を断った。血しぶきすら、遅い。

 もう一体が背後から迫る。踏み込み、逆手で心臓を貫く。刃が骨を裂き、冷たい感触と共に抵抗が消える。


 刹那、二体の影は糸が切れたように崩れ落ちた。

 光がさらに差し込み、残る闇を押し広げていく。


***


 祭壇の崩壊が進むにつれ、空間を歪めていた重苦しい圧は、少しずつではあるが剥がれ落ちていった。それでも目の前の第五世代は、儀式の加護を失ってなお、刃のような殺気を纏っている。

 レニは片膝をつきながらも、その蒼い瞳で相手の呼吸を読み、細い息を吐く。肩口から血が滴り、白いシャツの袖を濡らしていた。


「……まだ速い。けれど、さっきまでとは違う」


 ザンビが後方で呟く。

 彼の手は腰の呪具袋の中で素早く動き、幾つもの札や薬包を選び取っている。その指の動きは正確で、まるで脈を診る医師のように迷いがない。


 第五世代は一歩踏み込み、床板を砕きながら長い腕を横薙ぎに振るった。

 風圧だけで頬を切られ、レニはすぐさま半歩下がって受け流す。

 その視線の端、ザンビが栞の位置を確認するのが見えた。彼女は崩れた祭壇の縁に膝をつき、両腕で自らを支えていた。

 全身を覆う汗、唇の色の薄さ――戦える状態ではない。


「……行け、栞!」


 その声と同時に、ザンビの掌で呪具が炸裂した。

 紫がかった閃光と低い衝撃音が室内を満たし、第五世代の動きがほんのわずか、鈍る。その隙を逃さず、レニは相手の足元に滑り込むように接近し、鋭い蹴りを膝関節へ叩き込んだ。


 だが、その肉体はまるで鋼鉄の柱のように揺るがない。逆に、蹴った衝撃でレニの脛に鈍い痛みが走った。


 栞は、声の届いた瞬間、ふらつきながらも立ち上がる。

 割れた床の上を走るその足取りは危うく、何度も崩れそうになるが――彼女の視線は、迷いなく祭壇の中心へと向けられていた。

 そこで、ザンビは腰ポケットからインペポ・スティックを取り出す。


「……仕方ないな」


 短く呟き、火を点ける。

 濃い香煙が立ち昇り、ザンビはそれを肺の奥まで吸い込んだ。

 次の瞬間、彼の瞳が夜の闇に溶け込むような金色に変わり、褐色の肌に淡い光の線が奔る。


 レニが一歩退いたその前に、ンム状態のザンビが躍り出た。

 風切り音が鋭く響き、第五世代の腕がわずかに遅れて動く。

 儀式崩壊の影響でマナの供給は不安定、それでも怪物の膂力は健在だ。

 だが、今のザンビはそれに匹敵する速度を得ていた。


 金と黒が交錯し、床板が次々と砕け散る。

 ザンビは相手の拳を紙一重で避け、逆に肘を打ち込み、足を払う。

 レニはその横で攻撃の軌道を逸らすように刃を走らせ、互いに一手ずつ連携を重ねていく。


 第五世代の眉間に皺が寄った。

 その口から短く息が漏れた瞬間、ザンビが後退し、呪具を足元に投げつける。

 爆ぜた煙が視界を覆い、レニが刹那の隙を突く

 ――しかし、第五世代は反射的にそれを掴み、力任せに床へ叩きつけた。


 鈍い衝撃音と共に、レニの体が数メートル吹き飛び、壁に激突する。

 血が飛び散るが、彼はすぐに膝をつき、再び構えた。


 その隙に、栞は祭壇跡に辿り着く。

 息は荒く、足は震えている。それでも彼女は膝をつき、残った魔法陣の欠片を踏み砕いた。

 途端に部屋全体が低く唸りを上げ、空間がさらに軋む。


 第五世代の目がわずかに見開かれる。

 その変化を、ザンビもレニも見逃さなかった。


 祭壇の最後の欠片が砕け、淡い光が煙のように天井へと昇っていく。

 同時に、部屋の空気がひときわ低く唸り、重力そのものが軋むような感覚が押し寄せた。

 第五世代の瞳が揺らぎ、そこに宿っていた均質な光がわずかに欠ける。


「……終わらせる」


 ンム状態のザンビが、低く、しかし確かな声で呟いた。

 その足が床を抉るように踏み込み、金色の残光が弧を描く。

 レニも同時に動き、相手の注意を二分させるよう斜め後方から切り込む。


 第五世代は吠えた。

 その咆哮は耳ではなく骨を震わせる衝撃として全身を貫き、崩れかけた天井の梁を鳴らす。怒りと焦燥が混ざった叫び――その理由は明白だった。儀式は崩れ、マナの循環は途切れ、勝機は刻一刻と失われている。


 だが、それでも一撃は重い。

 渾身の拳がザンビの腹部を穿つように叩き込まれ、鈍い音とともに彼の体が後方へ弾き飛ばされた。

 壁を割って沈み込むように倒れるザンビ。その口元から黒ずんだ血が滴り、光の紋様が淡く瞬くたびに消えかける。


 「……まだ、終わっちゃいねえ」


 吐き捨てるように言い、ザンビは膝をつきながらも目だけは相手から逸らさない。

 その隙を狙うように、第五世代が再び動く――が、その軌道を遮ったのはレニだった。


「僕が相手です」


 短い言葉と同時に、レニの身体が霞のように揺らめく。

 マナの流れが相手の周囲を撫で、微細な振動が呼吸のリズムを狂わせる。

 たとえ力で劣っても、精度と間合いで均衡を崩す。それが彼の戦い方だ。


 わずかな間隙。

 その瞬間、壁を破って陽光が一筋差し込んだ。

 崩れた天井から覗く光は、第五世代の頬をかすめ、その皮膚を焦がす。


「――終わりだ」


 ザンビの声とともに、金色の閃光が最後の一歩を刻む。

 第五世代は腕を交差して防御を試みるが、儀式崩壊で弱ったマナの膜は刃のような動きに耐えられない。

 ザンビの打撃が胸部を貫き、レニの刃が頸動脈を裂く。


 瞬間、内部から膨張するようにマナが爆ぜ、黒い霧と化して四散した。

 そこに残ったのは、ひび割れた床と、崩れゆく壁の音だけ。


「……終わったのか」


 レニが視線を遠くに向ける。

 ノクターン全体に走るひび割れは広がり続け、構造そのものが崩壊へ向かっている。まだ安全圏に脱したわけではない。


「……行くぞ、外へ」


 レニが短く促し、ザンビは頷いて栞を抱き上げる。

 その腕の中で、彼女は意識の半分を夢に預けているかのように静かだった。


 通路を抜けた先で、冷たい外気と混ざる煙の匂い――そして、見覚えのある二つの影があった。篠森とナユタ。

 第7世代の血の匂いを纏い、なお息を荒げながらも立っている。


「お前ら……無事か」


 ザンビが声をかけると、篠森は短く息を吐き、手に握ったナイフを下ろした。

 ナユタは無言のまま、ザンビの肩越しに栞を見やった。


「急ぐぞ。ここも危険だ」


 崩れゆく廊下を駆け抜ける。

 背後で、ノクターンの闇が最後の抵抗を見せるように呻いた。


 その音を背に、彼らは光の方へと向かった。

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