第21話 二つの影

 雲は鉄錆を溶かしたような色を孕み、幾重にも重なって空を塞いでいた。

 港の光はその下で急速に痩せ細り、闇が水のように岸辺を這い上がってくる。

 波音は遠く、湿った空気が肺よりも先に耳と骨に染み込んだ。


 その暗の深みに、輪郭の細い影がひとつ、にじむように現れた。

 風が止み、港の匂いまでもが遠のく。


 最初に動いたのはレニだった。

 無言のまま片膝をつき、首を垂れる。その姿勢には、これまでの彼からは想像できぬ、深い恭順の色があった。


 篠森の目に映ったのは、淡い銀の髪を肩に垂らし、深く覆う外套の裾を潮風に揺らす小柄な女性の姿。

 その顔立ちは、港町の薄闇に咲いた精緻な細工物のようで、年若く見える。だが、目の奥に宿る光だけは、肉体の外形とは異なる時間の重みを湛えていた。

 視線を合わせた瞬間、全身の毛穴が微かに開くような感覚が走る。

 それは敵意でも殺気でもない。

 ──ただ存在するだけで、周囲の空気を支配してしまう質の力。


 一歩ごとに、場の空気が変わっていく。

 波音はより低く、港の影は濃く。

 倉庫の壁に映る人影が、輪郭を揺らめかせるほど、空間そのものが収縮する。


「……クラウディア」 


 イルバは動かない。

 仮面の奥にある視線が、わずかに沈んだ。

 ほんの一瞬、その沈みの中に揺らぎが走る──

 しかし次の瞬間には、平面のような無表情に戻っている。

 篠森には、その変化の意味はわからない。だが、彼の沈黙には、先ほどまでの一方的な圧とは別種の緊張が混じっていた。


 銀の髪の影は足を止め、ゆるやかに顔を上げた。

 その動きだけで、倉庫内の空気がさらに張り詰める。

 レニは膝をついたまま動かず、イルバもまた沈黙を崩さない。


 ──誰も、言葉を発しない。

 だが、その沈黙は、やがて何かが投げかけられる予兆として、場の全員を縛りつけていた。


その沈黙を破ったのは、鈴を転がすような、しかし氷の粒を含んだ声だった。


「ここは随分と荒れているのね」


音量は控えめだった。それでも、その言葉は港の隅々まで届いたように思えた。

風が戻り、倉庫の板壁がわずかに軋む。

先ほどまで押し潰されるようだった空気は、張り詰めたまま質を変え、鋼の糸のような冷たさを帯びていく。


レニは深く頭を垂れたまま、唇の端にうっすらと笑みを刻む。

その笑みは敬意に近いが、同時に安堵にも似ていた。

篠森は、そのやり取りの意味を掴めない。ただ、目の前の少女のような存在が、場の全員を無意識に従わせている事実だけが、肌でわかる。


イルバはわずかに首を傾けた。

動きは緩やかで、仮面の奥の表情は読めない。

しかし、その肩の角度と、呼吸の間合いが、先ほどまでの彼とは微妙に異なっていた。

──退くべきか、進むべきか。

彼の思考は、その二つの間を慎重に往復しているようだった。


クラウディアは一歩、二歩と前へ進む。

その足音は軽いが、響きは重い。

外套の影が栞にまで届くと、栞の肩が一度だけ大きく揺れた。

顔を上げたその瞳は、恐怖とも救済ともつかない感情で濡れている。


「あなたを連れて行くわ」


短い宣告。

それは提案ではなく、決定事項として発せられた響きだった。

そしてその決定が、この場の力関係を一瞬で塗り替える──篠森は、そのことを直感した。


イルバは微動だにせず、長く、深く息を吐いた。

吐息は熱を帯びていたが、その熱は怒りではなく、冷えた諦念のようにも感じられた。


「……そうか」


低く短い声。

それだけで、彼が結論を下したことは場の全員に伝わった。


仮面越しの視線が、栞の横顔を一度だけかすめる。

だが、その奥にあったはずの圧は、もう感じられなかった。

代わりに、ほんのわずかな揺らぎ──負けを悟った者が最後に残す、薄い膜のような感情が漂う。


「漆黒連盟はノクターンを放棄する」


それは先ほどの威圧的な響きとは異なり、事務的で乾いた宣言だった。

イルバはゆっくりと背を向け、部下たちに目配せをする。

数人の影が静かに後退し、潮の匂いに紛れて消えていった。


篠森はその背中を見送りながら、言葉にならない感覚に包まれていた。

戦場で勝敗が決する瞬間──そこに至るまでの経緯も理由も理解していないのに、

なぜか今、自分が大きな岐路の傍らに立っていることだけはわかる。


イルバの影が港の闇に溶けると、残された空気は、急に軽くなった。

だが、その軽さは解放ではなく、新たな緊張の予兆のように思えた。


視線を戻すと、クラウディアが栞のすぐ傍に立っていた。

その口元には、先ほどまでの鋭さを覆い隠すような、淡い微笑が浮かんでいる。

しかし篠森は、その微笑みの下に隠された意図に気づくほど、この世界を知らない。


倉庫の中、再び沈黙が満ちる。

それは、次に放たれる言葉を全員が待っている沈黙だった。

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