第十章 侵入

 〇三三〇。

 ユキは基地の廊下を歩いていた。

 足音が、いつもより重い。任務用の装備は既に外してある。それでも、体が鉛のように重かった。

 医療班の確認を受け、報告書を提出し、すべての手続きを終えた。表面上は、通常の任務帰還と変わらない。だが、心の中では嵐が吹き荒れていた。

 カイを止められなかった。

 また、一人で行かせてしまった。

 自室のドアを開けると、見慣れた光景が待っていた。狭い部屋。簡素なベッド。壁の染み。すべてが前と同じ。カイが消えても、部屋は何も変わらない。

 ベッドに腰を下ろし、天井を見上げた。

 涙は出ない。もう、涙も枯れ果てたのかもしれない。何度も同じ別れを繰り返してきた。その度に泣いて、その度に立ち直って、また新しいカイと出会って。

 だが今回は違う、とカイは言った。

 みんな、そう言う。どのカイも、自分だけは違うと信じている。真実を知れば、すべてを変えられると。

 ユキは目を閉じた。

 前のカイの顔が浮かんでくる。最後に見た、決意に満ちた表情。その前のカイも、同じような顔をしていた。さらにその前も。

 どこまで遡れるだろうか。記憶は次第に曖昧になり、顔も声も混ざり合っていく。遠い昔の記憶は、もう霧の中だ。

 みんな違って、みんな同じ。そして、みんないなくなった。

 

 ノックの音がした。

「ユキ、いるか?」

 ミオの声だった。

「……入って」

 ドアが開き、ミオが入ってきた。その表情は、いつもの冷静さを保っていたが、目には心配の色があった。

「他のメンバーの状況は?」

 ユキが聞くと、ミオは首を振った。

「レンとショウは……まだ戻っていない」

 重い沈黙が流れた。

「カイは?」

 ミオが聞いた。その声には、答えを知りながら聞く者の躊躇いがあった。

「都市中心部へ向かった」

 ユキは淡々と答えた。感情を殺して、事実だけを口にする。

「一人で?」

「ええ」

 ミオは溜息をついた。そして、ユキの隣に腰を下ろした。

 ミオは少し迷うような顔をした。

「レンのこと……前にも似たようなことがあった気がする」

 その声は不確かで、自分でも確信が持てないような響きだった。

「いえ、違うわね。ただの既視感かもしれない」

 ミオは首を振り、端末を取り出した。

「とにかく、報告書を作成しないと」

 画面を見つめながら、ミオは事務的に続けた。

「チームの再編成も必要になる。新しいリーダーを……」

 言葉が途切れた。ミオの指が、一瞬震えた。

「なぜかしら。この手順も、前にやったような……」

 ユキは黙って聞いていた。ミオの混乱。断片的な記憶の兆し。それは、やがて来る崩壊の前触れだった。

 いつか、ミオもショウも、この違和感に耐えられなくなる。そして——。

「疲れているのね」

 ミオが自分に言い聞かせるように言った。

「少し休んだ方がいいかも」

 

 その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。

 扉が勢いよく開き、ショウが飛び込んできた。その顔は汗まみれで、呼吸も荒い。

「ショウ!」

 ミオが立ち上がった。

「無事だったのね」

「ああ、なんとか」

 ショウは壁にもたれ、呼吸を整えた。

「罠から脱出するのに手間取った。レンは……」

 言葉が途切れた。ショウの表情が曇る。

「第三医療センターで治療を受けてる。意識ははっきりしてるが、傷は深い」

 三人の間に、重い空気が流れた。

「それで、カイは?」

 ショウが聞いた。部屋を見回し、カイの不在に気づく。

「まさか……」

「都市中心部へ向かった」

 ユキが答えた。

 ショウの顔が青ざめた。

「正気か? あそこは最高レベルの警戒区域だぞ」

「止められなかった」

 ユキの声は小さかった。

「いつも、そう。カイは……どのカイも、真実を求めて一人で行ってしまう」

 ショウがユキの言葉に顔をしかめた。

「どのカイもって……何を言ってるんだ?」

 だが、その声には確信がなかった。違和感を覚えながらも、それを言葉にできない。

 ミオも困惑した表情を浮かべた。理解できない言葉の意味を、必死に探っているようだった。

 

 〇四〇〇。

 カイは暗い通路を進んでいた。

 最下層から都市中心部への道のりは、予想以上に複雑だった。幾つもの隔壁があり、防衛システムが稼働している。だが、不思議なことに、カイの体は道を知っているようだった。

 右に曲がる。階段を上る。隠し通路を抜ける。

 すべてが既視感を伴っていた。前にもここを歩いたような、体が覚えているような感覚。

 監視カメラの死角を本能的に選び、センサーの検知範囲を見事に避ける。まるで、この施設の設計を知り尽くしているかのように。

 

 地下二十階。

 ここから先は、市民が普段立ち入らない区域だ。何があるのか、誰も知らない。興味を持つ者もいない。ただ、漠然と「必要のない場所」として認識されている。

 だが、カイは確信していた。この先に、都市の秘密がある。誰も近づかない場所にこそ、コンピュータの中枢があるはずだ。

 カイは立ち止まり、深呼吸をした。

 ユキとの約束が頭をよぎる。「必ず戻る」。その言葉を、守れるだろうか。

 いや、守らなければならない。

 今度こそ、ユキを救うために。この永遠の繰り返しを終わらせるために。

 警告を無視して、カイは先へ進んだ。

 

 通路は次第に狭くなり、天井も低くなっていく。まるで、訪問者を拒むような構造。

 やがて、金属製の扉が現れた。複雑なロックシステムが設置されている。

 カイは扉に手を当てた。冷たい金属の感触。そして、微かな振動。向こう側で、何かが動いている。

 ロックパネルを見つめる。複雑な認証システム。通常なら、解除は不可能だ。

 だが、カイの指が勝手に動いた。

 特定のパターンでパネルをタッチする。まるで、暗証番号を知っているかのように。いや、体が覚えているのだ。

 電子音が鳴り、ロックが解除された。

 重い扉がゆっくりと開く。

 

 その先には、長い廊下が続いていた。

 壁には青い光が流れ、天井からは低い機械音が響いている。都市の心臓部に近づいている証拠だった。

 カイは慎重に歩を進めた。

 角を曲がった瞬間、目の前に人影が現れた。

 防衛部隊。

 黒い制服に身を包み、顔はヘルメットで覆われている。トラブルシューターの装備に似ているが、より重装備だった。手にはカイよりも大型のエネルギー銃。

「止まれ」

 機械的な声が響いた。

「識別番号を提示しろ」

 カイは答えなかった。代わりに、体を低くした。

 防衛隊員が銃を構える。だが、カイの方が早かった。

 

 一瞬の静寂。

 そして、戦闘が始まった。

 カイは床を蹴り、横に飛んだ。エネルギービームが先ほどまでいた場所を焼く。着地と同時に前転し、隊員の懐に潜り込む。

 肘打ち。装甲服越しでも、急所への正確な一撃は効果があった。隊員がよろめく。その隙に、銃を奪い取る。

 だが、敵は一人ではなかった。

 廊下の奥から、さらに三人の隊員が現れる。全員が銃を構え、カイを包囲する形で展開した。

「投降しろ」

 リーダーらしき隊員が告げた。

「抵抗は無意味だ」

 カイは奪った銃を構えた。投降する気はない。

 三対一。通常なら勝ち目はない。だが、カイの体は恐怖を感じていなかった。むしろ、懐かしさすら覚えていた。

 この状況も、前に経験したことがある。

 

 隊員たちが一斉に撃ってきた。

 カイは動いた。人間離れした速度で。

 ビームの軌道を読み、紙一重でかわす。壁を蹴って三次元的に移動し、敵の射線から外れ続ける。

 そして、反撃。

 正確な射撃が、一人目の隊員の銃を破壊した。続けて二人目の足を撃ち、行動不能にする。

 残る一人——リーダーが、何かを投げてきた。

 手榴弾。

 カイは瞬時に判断した。逃げるのではなく、前に出る。手榴弾を蹴り返し、同時にリーダーに体当たりを食らわせた。

 爆発音。

 衝撃波が廊下を揺らす。だが、カイは既にリーダーを組み伏せていた。

 

 戦闘は終わった。

 四人の隊員は全員行動不能になったが、カイは誰も殺していなかった。必要最小限の力で、確実に無力化しただけだ。

 荒い息を整えながら、カイは先へ進んだ。

 なぜ、こんなことができるのか。

 訓練では教わらなかった動き。人間の限界を超えた反応速度。そして、この施設の構造への奇妙な理解。

 答えは、きっとこの先にある。

 

 さらに奥へ進むと、巨大な扉が現れた。

 今までのどの扉よりも大きく、重厚だった。表面には複雑な紋様が刻まれ、中央にはアルファの紋章がある。放射線マークも刻印されている——原子炉区画だ。

 ここが最深部だ。

 カイは確信した。都市の動力源である原子炉。その管理システムと共に、コンピュータの中枢もここにあるはずだ。

 

 だが、扉の前には最後の防衛線が待ち構えていた。

 二十人の隊員。

 全員が重装備で、完璧な隊列を組んでいる。その統制の取れた動きは、精鋭部隊であることを示していた。中央には、特に大柄な隊員が立っていた。隊長だろう。

「侵入者、これ以上の前進は許可されていない」

 隊長が機械的な声で告げた。ヘルメット越しの声には感情がない。

「直ちに投降し、指示に従え」

 カイは首を振った。

「できない。俺は先へ進む必要がある」

「警告は以上だ」

 隊長が手を上げた。隊員たちが一斉に構える。

「実力を行使する」

 

 カイは息を吸った。

 二十対一。絶望的な戦力差。だが、退く気はなかった。

 ユキとの約束が、カイを支えていた。

 

 戦闘が始まった。

 隊員たちの攻撃は正確で、連携も完璧だった。交差する射線、計算された動き。まるで一つの生き物のように機能している。

 だが、カイの動きはそれを上回っていた。

 限界を超えた速度。人間離れした反応。そして、受けた傷が見る見るうちに塞がっていく。肉体の再生能力が、完全に覚醒していた。

 

 一人、また一人と隊員が倒れていく。

 カイは殺さなかった。正確に急所を外し、行動不能にするだけ。それでも、二十人を相手にするのは困難を極めた。

 体中に傷を負い、呼吸も乱れる。だが、止まれない。

 

 ついに、隊長と一対一になった。

 隊長はヘルメットを外さなかった。顔を見せることなく、淡々と戦い続ける。その動きは他の隊員よりも洗練されていたが、カイの覚醒した能力には及ばなかった。

 最後の一撃が、隊長を床に沈めた。

 隊長は呻きながら、通信機に手を伸ばした。

「第七防衛隊より管制室。侵入者一名、制圧に失敗。増援を……」

 それきり、意識を失った。

 

 カイは倒れた隊員たちを見回した。全員、生きている。任務に忠実な彼らに、恨みはなかった。

 巨大な扉へ向かう。扉は重く、開くのに全力を要した。だが、なぜか施錠はされていなかった。まるで、侵入者を拒みながらも、同時に受け入れているような。

 

 カイは扉をくぐった。

 一歩、また一歩と進む。

 そして、立ち止まった。

 

 空間に声が響いた。機械的で、完全に無感情な声。

『侵入者を確認。識別番号KAI-99』

 コンピュータの声だった。

『要件は何でしょうか』

 

 〇五〇〇。

 基地では、ユキが窓のない壁を見つめていた。

 ミオとショウも一緒にいる。三人とも無言だった。カイが出発してから、既に一時間以上が経過している。

 生きているだろうか。

 無事にたどり着けただろうか。

 そして——真実を知って、どうするのだろうか。

 

 ユキは目を閉じた。

 記憶の中の、数え切れないカイたちの顔が浮かんでくる。みんな、真実を求めて旅立った。そして、誰も帰ってこなかった。

 今度は違う、とカイは言った。

 信じたい。

 信じるしかない。

 でも、心の奥では分かっている。

 これも、いつかは終わる。

 すべてが、また始まりに戻る。

 それでも——それでも、ユキは待ち続ける。

 カイが帰ってくることを信じて。

 たとえそれが、幾度となく裏切られてきた希望だとしても。

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