第九章 最後の任務

 〇五四五。

 カイは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。天井の茶色い染みを見つめる。いつもと同じ朝。だが、何かが違っていた。

 体を起こし、壁の落書きに目をやる。かすれた文字が薄暗い部屋で影を作っている。誰が書いたのか。いつ書かれたのか。答えを知る者はいない。

 あるいは、知っていても口にしない。

 

 身支度を整えながら、カイは昨夜のことを思い返した。

 ユキの涙。震える肩。「また始まる」という言葉。その意味を、カイはまだ完全には理解していない。だが、心のどこかで分かり始めていた。

 レン。

 どこかで見た顔。聞き覚えのある声。

 だが、それが何なのか、はっきりとは思い出せない。

 

 部屋を出ると、廊下で新人のレンに会った。

「おはよう、カイ」

 明るい声。希望に満ちた目。制服はまだ新しく、歩き方にも初々しさが残っている。

「ああ」

 カイは短く答えた。

 二人は並んで歩き始めた。足音が廊下に響く。同じリズム、同じ歩幅。訓練の成果か、それとも。

 

「なあ、カイ」

 レンが口を開いた。

「昨日の任務、うまくいったと思うか?」

 カイは横目でレンを見た。

「ああ、問題なかった」

「そうか。良かった」

 レンは満足そうに頷いた。

「早く一人前になりたいんだ。チームの役に立ちたい」

 その真っ直ぐな目。希望に満ちた声。まだ摩耗していない若さがそこにあった。

 

 食堂は静かな活気に満ちていた。

 市民たちが整然と列を作り、配膳を受け取る。控えめな話し声と食器の音だけが響く。秩序立った朝の光景。

 カイは端末を確認しながら食事を取った。今日の任務スケジュール。居住区第三セクターの定期巡回。新人研修を兼ねた、基本的な任務。

 

 向かいの席で、レンが熱心に資料を読んでいた。

 フォークを左手に持ち、少し前かがみになる姿勢。時折、スープを飲む前に必ず一度かき混ぜる。

 その仕草を見ていると、カイは妙な感覚に襲われた。前にも、こんな風に食事をする誰かを見たような。だが、それが誰だったか思い出せない。記憶の中で影がちらつくだけだった。

「熱心だな」

 ショウが横から声をかけた。

「当然だろ。早く一人前になりたいからな」

 レンが顔を上げて笑った。その笑顔も、どこかで見たような。

 

 ミオが端末を操作しながら言った。

「今日の巡回ルートは、A-7からB-3まで。特に問題は報告されていないわ」

「了解」

 カイは頷いた。

 だが、心のどこかで別のことを考えていた。

 

 調査。

 昨夜芽生えた欲求が、朝の光の中でより明確になっていた。知りたい。この違和感の正体を。似た人間ばかりが現れる不思議を。アルファという都市の真実を。

 

 〇八〇〇。

 巡回任務が始まった。

 五人のチームは、整然と並んだ居住区を歩いていく。監視カメラが赤い光を点滅させ、換気口から低い音が響く。アルファの日常。

 

 レンは周囲を注意深く観察していた。

「ここの住民は、皆幸せそうだな」

 確かに、すれ違う市民たちの表情は穏やかだった。挨拶を交わし、決められた仕事に向かい、予定通りの一日を過ごす。

「幸せの定義にもよるがな」

 ショウが軽い調子で答えた。

 

 カイは歩きながら、通り過ぎる市民たちの顔を観察していた。

 皆、二十代から四十代の間に見える。それが当たり前のことのように、誰も疑問を持たない。カイ自身も、それが普通だと思っていた。

 ただ、何かが欠けているような違和感だけがあった。

 

 角を曲がったところで、第十二小隊とすれ違った。

 リーダーらしき男が軽く手を上げる。カイも応じた。その隊の新人らしき若い女性が、こちらを見て一瞬立ち止まった。

 レンを見つめる、その目。

 驚きとも、既視感とも取れる表情。だが、すぐに視線を逸らし、隊列に戻っていった。

 

「どうかしたか?」

 レンが首を傾げた。

「いや、何でもない」

 カイは前を向いた。

 

 巡回は順調に進んだ。

 市民たちは決められた場所で決められたことをしている。若い労働者は無言で画一的に動き、長く働いている者は時折雑談を交わしたり、作業の手を休めたりしていた。

 あまりにも予測可能な日常。

 

 休憩時間、カイは一人で監視塔に上った。

 高い場所から見下ろすアルファ。整然と区画された街並み。規則正しく動く人々。すべてが計画通りに進行している都市。

 端末を取り出し、過去の任務記録にアクセスした。

 

 三ヶ月前の記録。

 半年前の記録。

 一年前の記録。

 

 パターンが見えてきた。

 反乱の発生頻度。月に一、二回。必ず鎮圧される。死傷者の数もほぼ一定。まるで計画されているかのような規則性。

 以前ミオが言っていた通りだった。「最近、反乱の頻度が上がっている」。確かに、ここ数ヶ月の記録を見ると、発生間隔が短くなっている。だが、より長いスパンで見れば、それすらも規則的なパターンの一部だった。頻度が上がり、そしてまた下がる。永遠に続く波のように。

 

「何を見てる?」

 背後から声がした。ユキだった。

 いつの間に上ってきたのか。足音一つ立てずに。

「過去の記録を」

 カイは正直に答えた。隠しても無駄だと思った。

 

 ユキは隣に立ち、遠くを見つめた。

 風が彼女の銀髪を揺らす。人工の風。すべてが作られた環境。

「見つかると思う?」

 静かな声だった。

「何が?」

「あなたが探してるもの」

 

 カイは端末を閉じた。

「分からない。でも……」

「でも?」

「知りたいんだ」

 

 ユキは何も言わなかった。

 ただ、カイの手にそっと自分の手を重ねた。冷たい手。震えているようにも感じられた。

「……気をつけて」

 それだけ言って、ユキは踵を返した。

 階段を降りていく足音が、次第に遠ざかっていく。

 

 午後の任務は、第七セクターの工場地帯の巡回だった。

 巨大な製造ラインが稼働し、労働者たちが黙々と作業を続けている。誰も私語を交わさない。必要最小限の会話だけが、作業の合間に交わされる。

 

 レンが感心したように言った。

「効率的だな」

「ああ」

 カイは相槌を打ちながら、労働者たちの顔を観察していた。

 

 疲れている。

 誰もが同じような疲労を顔に貼り付けている。だが、不満を口にする者はいない。ただ黙々と、与えられた仕事をこなしている。

 

 工場の隅で、一人の労働者が立ち止まっていた。

 中年の男。手には工具を持ったまま、じっと一点を見つめている。作業は止まり、体は微動だにしない。

「おい、大丈夫か?」

 ショウが声をかけた。

 

 男はゆっくりと振り返った。

 目は虚ろで、焦点が合っていない。

「……もう、疲れた」

 掠れた声だった。

「毎日、同じことの繰り返し。いつまで続くんだ」

 

 ミオが端末を操作し始めた。

「医療班を呼びます」

 その声は事務的で、感情がこもっていない。慣れた手順。よくあることなのだろう。

 

 男は工具を落とした。

 金属音が工場内に響く。他の労働者たちは、ちらりと見るだけで作業を続けている。

「もう……いいだろう」

 男はふらふらと歩き始めた。高所の作業台に向かって。

 

 カイは動いた。

 本能的に。男を止めようと。だが、レンの方が早かった。

 素早い動きで男の腕を掴み、引き戻す。男は抵抗しなかった。ただ、力なく崩れ落ちた。

 

「任務は任務だ」

 レンが低く呟いた。

「でも、人は人だ」

 

 その言葉に、カイは既視感を覚えた。

 同じ状況。同じ行動。同じ言葉。いつか、どこかで。

 

 医療班が到着し、男を連れて行った。

 担架に乗せられ、静かに運ばれていく。他の労働者たちは、もう誰も見ていなかった。日常が、何事もなかったかのように続いている。

 

 基地への帰路、カイは考え続けていた。

 繰り返し。

 同じことの繰り返し。

 その言葉が、頭から離れなかった。

 

 夕食後、カイは記録保管室に向かった。

 いつも通り過ぎる場所。扉は開いており、誰でも入れる。だが、普段は誰も興味を示さない。今日のカイは違った。

 薄暗い室内で、古い記録を探る。アルファの歴史。市民の記録。トラブルシューターの任務記録。

 断片的な情報。

 欠落した期間。

 不自然な空白。

 

 そして、一つの事実に気づいた。

 

 チームメンバーの交代記録。

 十年前、二十年前、三十年前。

 名前が繰り返されている。カイ、ユキ、レン、ミオ、ショウ。同じ名前が、何度も何度も。

 

 識別番号だけが違う。

 KAI-98、KAI-97、KAI-96……。

 

 背筋が凍った。

 これは何を意味するのか。同じ名前の別人が、偶然配属され続けているのか。それとも。

 

「見つけたか」

 声に振り返ると、ユキが立っていた。

 記録保管室の薄暗い照明が、彼女の顔に影を作っている。表情は読めない。

「ユキ……」

「見つけたんでしょう?」

 

 カイは端末の画面を見せた。

 繰り返される名前。変わる番号。永遠に続くかのような記録。

「これは……」

「分からない」

 ユキが首を振った。

「私にも、分からない」

 

 嘘だ、とカイは思った。

 ユキは知っている。すべてではないにしても、カイより多くを知っている。その目が物語っていた。

 

「でも」

 ユキが続けた。

「分かることもある」

 

 彼女は窓のない壁に手を置いた。

 冷たいコンクリート。アルファという巨大な箱の一部。

「私たちは、ここにいる。今、この瞬間に」

 振り返って、カイを見つめる。

「それだけは、確かなこと」

 

 カイは立ち上がった。

 ユキに近づき、その肩に手を置く。華奢な肩。でも、どこか強さを秘めた体。

「俺は知りたい」

「……うん」

「止めるか?」

「止められない」

 

 ユキは苦笑した。

 悲しみと諦めが混じった笑み。

「いつも、そう。あなたはいつも、真実を求める」

 

 その夜、カイの部屋に緊急招集がかかった。

 端末が赤く点滅し、コンピュータの声が響く。

『緊急任務。全員、ブリーフィングルームへ』

 

 深夜のブリーフィングルーム。

 チーム全員が集まっていた。新人のレンも、緊張した面持ちで立っている。

 

 モニターに任務内容が表示された。

 最下層。

 動力炉区画での大規模な反乱。

 

 ショウが口笛を吹いた。

「こいつは大物だな」

 

 ミオが冷静に分析を始めた。

「反乱軍の規模、約二百。武装レベル、高。予想される戦闘時間、六時間以上」

「前回の大規模反乱の生き残りかもしれないわね」

 ミオが付け加えた。

「取り逃がした反乱者たちが、再び集結した可能性が高い」

 

 そして、最後に表示された数字。

 生存率:十五パーセント。

 

 室内の空気が重くなった。

 レンが息を呑む音が聞こえた。まだ若い。まだ希望を持っている。こんな数字を見たことがないのだろう。

 

 カイは全員の顔を見回した。

 ショウは相変わらず軽い笑みを浮かべているが、目は笑っていない。

 ミオは端末を見つめたまま、指が微かに震えている。

 ユキは……カイを見つめていた。深い悲しみを湛えた目で。

 

「行くしかない」

 カイが口を開いた。

「そうだな」

 

 レンが顔を上げた。

 決意を込めた声で続ける。

「任務は任務だ」

 

 準備は迅速に進められた。

 重装備。予備の弾薬。医療キット。すべてが手際よく用意される。慣れた手順。何度も繰り返されてきた儀式。

 

 武器庫で装備を整えながら、ユキがカイに近づいてきた。

 小声で囁く。

「生き残って」

「当然だ」

「……前も、そう言った」

 

 カイは手を止めた。

「前?」

 

 ユキは首を振った。

「何でもない。行きましょう」

 

 〇二〇〇。

 最下層への降下が始まった。

 

 エレベーターシャフトを下っていく。

 深く、深く。

 アルファの底へ。

 

 階数表示が次々と変わっていく。

 地下二十階。

 地下三十階。

 地下四十階。

 

 そして、最下層。

 

 扉が開いた瞬間、熱気が襲ってきた。

 動力炉の熱。機械の唸り。そして、戦闘の音。

 

 すでに戦いは始まっていた。

 反乱軍と自動防衛システムの激突。爆発音。叫び声。金属のぶつかる音。

 

「散開!」

 カイが叫んだ。

 

 チームは訓練通りに動いた。

 ショウが重火器で道を開き、ミオが敵の位置を解析し、レンとユキが側面を固める。カイは全体を見渡し、的確に指示を出していく。

 

 だが、敵の数は多かった。

 

 反乱軍は狂気に満ちていた。

 死を恐れず、ただ破壊を求めて突進してくる。その目には、絶望と怒りが宿っていた。皆、長年働いてきた者たちだった。個性的な疲労と怒りを顔に刻んでいる。

 

 なぜ、彼らは戦うのか。

 何を求めて、命を投げ出すのか。

 

 考える暇はなかった。

 

 戦闘は激化していく。

 チームは徐々に押され始めた。弾薬が減り、疲労が蓄積していく。

 

 そして、罠。

 

 床が突然崩れ、チームは散り散りになった。

 暗闇。

 混乱。

 通信は途絶え、各自が孤立した。

 

 カイは瓦礫の中で体を起こした。

 頭から血が流れている。視界がぼやける。だが、立ち上がらなければならない。

 

 仲間を探す。

 薄暗い通路を進む。どこかで戦闘音が響いている。生きている。まだ、皆生きている。

 

 角を曲がったところで、ユキを見つけた。

 壁にもたれ、肩を押さえている。血が滲んでいた。

「ユキ!」

「……カイ」

 

 二人は互いに駆け寄った。

 生きている。それだけで十分だった。

 

「他のメンバーは?」

「分からない。通信が……」

 

 その時、大きな爆発音が響いた。

 建物全体が揺れる。どこかで構造物が崩れる音。

 

「行こう」

 カイはユキの手を取った。

「皆を探して、脱出する」

 

 だが、ユキは動かなかった。

 カイを見つめたまま、首を振る。

「……もう、いい」

「何を言ってる」

「疲れた」

 

 その目に宿る疲労は、単なる戦闘の疲れではなかった。

 もっと深い、もっと根源的な疲れ。長い時間を生きてきた者の疲れ。

 

「ユキ」

 カイは彼女の肩を掴んだ。

「諦めるな。任務はまだ終わってない」

 

 ユキは小さく笑った。

「任務……そうね、任務は続く。いつまでも」

 

 再び爆発。

 今度はもっと近い。壁に亀裂が走り、天井から破片が降ってくる。

 

「行くぞ!」

 カイはユキの手を引いた。

 今度は、ユキも従った。

 

 二人は暗い通路を走った。

 出口を探して。

 仲間を探して。

 生存への道を探して。

 

 だが、カイの心の奥で、別の声が響いていた。

 

 これは最後の任務だ。

 何かが終わろうとしている。

 そして、何かが始まろうとしている。

 

 やがて、戦闘音が遠ざかった。

 二人は崩れかけた通路の奥に身を潜めた。暗闇の中、互いの呼吸だけが聞こえる。

 

「カイ」

 ユキが口を開いた。その声は、諦めと悲しみに満ちていた。

「もう、いいの」

「何が」

「全部よ」

 

 ユキは暗闇の中でカイを見つめた。

 その目は、薄暗い非常灯の光でかすかに光っている。

「何度も、同じことを繰り返してきた」

 静かな告白が始まった。

「あなたと出会って、恋をして、失って。また出会って、また恋をして、また失って」

 

 カイは息を呑んだ。

「ユキ……」

「覚えているの。全部じゃない。でも、断片的に」

 ユキの声は震えていた。

「前のあなたは、優しかった。その前のあなたは、強かった。さらにその前は……」

 言葉が途切れた。

「もう、どこまで遡れるのかも分からない。どれが本当の記憶なのかも」

 

 ユキは一瞬目を閉じ、何かを思い出そうとするような表情を見せた。

「あなたの部屋の……机の引き出しに」

 眉間に皺を寄せる。

「何かがあったの。大切な何かが」

 

 カイの脳裏に、ある光景が蘇った。訓練の後、自室に戻った時のこと。ユキが部屋にいて、引き出しを探っていた。あの時の彼女の表情——懐かしそうで、悲しそうで。

「何があったんだ?」

 

 ユキは首を振った。その顔に、深い苦悩が浮かんだ。

「分からない……思い出せないの」

 声が震えている。

「手紙だったような……写真だったような……それとも……」

 

 彼女は両手で頭を抱えた。

「もう、何も分からない。あまりにも長い時間が……あまりにも多くの繰り返しが……」

 涙が頬を伝った。

「数えるのも、とうの昔にやめた。私の記憶も、もう曖昧なの。何が本当で、何が夢だったのか」

 

 カイはユキの肩を優しく抱いた。彼女はカイの胸に顔を埋めた。

「覚えているのは、それが大切だったということだけ」

 くぐもった声で続ける。

「あなたとの……私たちの……でも、もう何だったのか……」

 

 遠くで爆発音が響いた。

 建物が揺れる。だが、二人は動かなかった。

 

「どうして俺を愛し続ける?」

 カイが聞いた。

「同じ顔でも、違う人間だろう?」

 

 ユキは悲しく微笑んだ。

「違うけど、同じ。同じだけど、違う」

 彼女はカイの頬に手を当てた。

「でも、どのあなたも、私を見つけてくれる。いつも」

 

 カイはユキの手を握った。

 冷たい手。震えている手。何度も別れを経験してきた手。

「この繰り返しを、終わらせたい」

 カイが決意を口にした。

「君を、ここから救い出したい」

 

 ユキの目に涙が浮かんだ。

「それも、前に聞いた」

「今度は違う」

「何が?」

 

 カイは立ち上がった。

 決意に満ちた目で、暗闇の奥を見つめる。

「真実を突き止める。すべての答えを見つける」

 

 ユキが息を呑んだ。

「それは……」

「都市の中心部に向かう。最深部に、すべてを管理する何かがあるはずだ」

 カイは続けた。

「記録の中の断片。反乱者たちが目指していた場所。そして、何より自分の中にある奇妙な確信」

 

「一緒に行く」

 ユキが立ち上がった。

「だめだ」

 カイは首を振った。

「これは俺一人でやる」

 

「また、そう言うの?」

 ユキの声に怒りが混じった。

「いつも一人で行って、いつも帰ってこない」

 

 カイはユキの肩を掴んだ。

「今度は違う。必ず戻る」

「嘘よ」

「ユキ」

 カイは真剣な目でユキを見つめた。

「君を救いたい。この永遠の繰り返しから」

 

 ユキは泣き崩れた。

 声を殺して、でも止められない涙。カイは優しく抱きしめた。

 

「基地に戻れ」

 カイが囁いた。

「そして、待っていてくれ」

「待つのは、もう疲れた」

「今度が最後だ」

 

 カイはユキの顔を上げさせ、その唇に優しくキスをした。

 塩辛い涙の味がした。

 

 再び爆発音。

 もう時間がない。反乱軍も、防衛部隊も、すぐにここを見つけるだろう。

 

「行け」

 カイがユキを押し出した。

「脱出路はあっちだ」

「カイ!」

「行くんだ!」

 

 ユキは一瞬ためらった。

 そして、振り返らずに走り出した。その後ろ姿が暗闇に消えるまで、カイは見送った。

 

 一人になったカイは、深呼吸をした。

 そして、逆方向へ歩き始めた。

 

 都市の中心部へ。

 反乱者たちが何度も目指している場所。彼らが破壊しようとしている何か。それは間違いなく、この都市を管理する中枢——コンピュータの本体があるはずだ。記録の断片、防衛の厳重さ、すべてがその推論を裏付けていた。

 真実へ。

 

 たとえそれが、どんな結末を迎えようとも。

 ユキを救うために。この無限の輪を断ち切るために。

 

 暗闇の中を、カイは一人で進んでいった。

 天井の染みは、ここにはなかった。

 代わりに、本物の闇が道を示していた。

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