第八章 再会
一四〇〇。
ブリーフィングルームへ続く廊下を歩きながら、カイは壁の監視カメラを見上げた。赤い光が規則正しく明滅している。レンが死んでから、この光を見るたびに妙な感覚に囚われるようになっていた。
見守られている。
あるいは、記録されている。
扉の前で一度立ち止まり、深呼吸をした。補充要員が到着したという。新しいメンバーを迎えるのは、本来なら歓迎すべきことだ。五人体制に戻れば、任務も楽になる。
だが、なぜか胸騒ぎがしていた。
扉を開けると、一人の男が立っていた。
若い。二十代前半といったところか。黒い髪を短く切り揃え、制服は真新しい。袖口にはまだ折り目が残っている。肩の力の抜け方、足の開き方、すべてが訓練施設を出たばかりの新人のそれだった。
カイは扉を開けたまま、一瞬動きが止まった。次の言葉が、すぐには出てこなかった。
「新人のレンだ。よろしく頼む」
明るい声が響いた。屈託のない笑顔。目に宿る希望の光。訓練施設を出たばかりの、まだ摩耗していない若さがそこにあった。
静かな電子音。
天井のスピーカーから、いつもの無機質な声が降ってきた。
『REN-24、登録完了』
その瞬間、部屋の空気が微妙に変わった。
いや、変わったのはカイだけかもしれない。他のメンバーは普通に反応している。ショウが軽く手を上げ、ミオが事務的に頷く。まるで、いつもの新人配属のように。
「よろしく。俺はショウ。こっちはミオ」
ショウの声には、何の戸惑いもなかった。死んだ男と同じ顔の人間が立っていることに、気づいていないかのように。いや、とカイは思った。自分も、はっきりとは思い出せない。ただ、この感覚は……。
「それから、こっちがユキと……」
ショウがカイを見た。カイは新人を見つめたまま、動けずにいた。
レンが首を傾げた。
「どうしました?」
その仕草に、カイは見覚えがあった。首を傾ける角度、眉の上がり方。どこかで見たような動作。
「……いや」
カイはようやく声を絞り出した。喉が渇いている。
「カイだ。よろしく」
新人のレンが笑顔を向けてきた。
「カイか。リーダーだと聞いてる」
リーダー。その言葉が胸に突き刺さった。つい先日まで、別の誰かがその立場にいたような……。だが、その記憶は霧の中のように曖昧だった。
カイの視線は、ユキに向いた。
彼女は壁際に立ち、じっと新人を見つめていた。表情は平静を保っている。だが、机の下で握られた拳が、わずかに震えているのをカイは見逃さなかった。白い指の関節が、さらに白くなっている。
「私はユキ。よろしく」
声は落ち着いていた。訓練された平静さ。だが、その目の奥に、カイは深い疲労を見た。諦めとも、悲しみとも違う、もっと根源的な疲れ。
新人のレンは嬉しそうに頷いた。
「ああ! 皆、よろしく頼む!」
ミオが端末を操作し始めた。指の動きは正確で、無駄がない。画面に任務スケジュールが表示される。
「早速だけど、明日からの任務について説明するわ」
いつも通りの口調。いつも通りの手順。何も変わっていない。まるで、最初から何もなかったかのように。
「明日は居住区第三セクターの定期巡回。新人研修も兼ねて、基本的な手順を確認しましょう」
カイは端末の画面を見つめた。
文字が目に入ってこない。代わりに、新人のレンの横顔が視界を占めている。メモを取る仕草、ペンの持ち方、集中するときの眉間の皺。すべてがどこか見覚えのある動作だった。
違う人間だ。
理性はそう告げている。だが、目の前の光景は別のことを語っていた。
「質問は?」
ミオが顔を上げた。
レンは首を振った。
「大丈夫だ。任務は任務だ」
その瞬間、カイの手が止まった。
任務は任務だ。
その言葉を、どこかで聞いたことがある。何度も聞いたような気がする。状況を受け入れ、前に進むときの決まり文句。それを、この新人が口にした。
偶然か。
それとも。
ブリーフィングが終わると、メンバーはそれぞれの方向へ散っていった。
ショウが新人の肩を叩いた。その音が、妙に大きく響いた。
「まずは訓練室からだ。基本的な動きを確認しないとな」
「ああ!」
二人の足音が遠ざかっていく。規則正しい軍靴の音。なぜか聞き覚えのあるリズムだった。
ミオも端末の前から立ち上がった。
「私は報告書の修正をしてくる」
彼女の足音も遠ざかる。カチカチという、硬い靴音。
ブリーフィングルームに、カイとユキだけが残された。
換気口から低い音が響いている。アルファの呼吸音。その音だけが、時間の流れを告げていた。
長い沈黙。
ユキは窓のない壁を見つめていた。灰色の壁面に、何かを探しているような目つきで。
「……行く」
小さくつぶやいて、立ち上がった。
カイは何も言わなかった。言えなかった。聞きたいことは山ほどあったが、どの質問も喉で詰まった。
ユキが扉に手をかけたとき、一瞬だけ振り返った。
その目には、言葉にできない何かが宿っていた。
そして、出て行った。
一人になったブリーフィングルームで、カイは椅子に深く座り込んだ。
天井を見上げる。蛍光灯が規則正しく並んでいる。その一つに、小さな虫の死骸が張り付いていた。いつからそこにあるのか。誰も気にしない、小さな異物。
夕食時、食堂はいつもと変わらない静かな空気に包まれていた。
市民たちが整然と列を作り、配膳を受け取り、決められた席で食事をする。話し声は控えめで、食器の音だけが響く。秩序立った光景。
カイは配膳カウンターで合成肉のシチューを受け取った。見た目は昨日と同じ。いや、いつから同じなのか、もう分からない。
離れた席から、新人のレンとショウの会話が聞こえてきた。
「エネルギー銃の扱いは得意なんだ。成績も良かった」
「そりゃ頼もしいな」
ショウが相槌を打つ。その調子に、戸惑いはない。本当に、何も気づいていないのか。それとも、気づかないふりをしているのか。
カイは二人を観察した。
新人のレンの食事の仕方。左手でフォークを持ち、少し前かがみになる癖。スープを飲む前に、必ず一度かき混ぜる仕草。水を飲むタイミング。どこかで見たような、一連の動作。
同じ訓練。
同じ習慣。
同じ……何?
「一緒に座ってもいい?」
声に振り返ると、第十二小隊の隊長が立っていた。中年の女性で、疲れた顔をしている。以前も話したことがある。
「どうぞ」
女性は深いため息をつきながら腰を下ろした。トレイには、ほとんど手をつけていない食事が乗っている。隊長の肩章が、薄暗い照明の下でくすんで見えた。
「新人が入ったんだってね」
「ええ」
「良かったじゃない。五人体制に戻れて」
女性の視線が、遠くの新人レンに向けられた。
一瞬、その表情が固まった。
フォークを持つ手が止まり、目が見開かれる。だが、すぐに元の疲れた表情に戻った。
「……あの子」
つぶやくような声だった。
「どうしました?」
カイは静かに聞いた。
女性は首を振った。力なく、機械的に。
「いや……似てる人がいた」
似ている。
その言葉が、空気を重くした。
カイは黙って頷いた。
「似てる、ですか」
「うん。でも、よくあることよ」
女性は苦笑した。笑みに、諦めの色が混じっている。
「アルファにいると、同じような顔をよく見る。気のせいかもしれないけど」
同じような顔。
よくあること。
気のせい。
その言葉の裏に、別の意味が潜んでいるような気がした。
女性は立ち上がった。食事はほとんど残っている。
「じゃあ、私は行くわ。任務頑張って」
去っていく背中は、ひどく小さく見えた。足取りは遅く、肩は内側に丸まっている。出口へ向かう途中で一度立ち止まり、振り返るような素振りを見せたが、結局そのまま食堂を出ていった。まるで、何かに別れを告げるような歩き方だった。
その夜、カイは自室で一人、天井を見つめていた。
あの茶色い染み。最初の夜から、そこにあった染み。水漏れの跡のような、あるいは別の何かの跡のような。ユキが星だと言った染み。
部屋は静かだった。
換気口の低い音。廊下を巡回する足音。どこかで鳴る機械音。すべてが混じり合って、アルファの夜を作っている。
ノックの音がした。
控えめな、三回のノック。
「カイ、いる?」
新人のレンの声だった。
カイは立ち上がり、扉を開けた。
レンが立っていた。手には資料端末を持ち、少し困ったような表情をしている。制服は着崩れ一つなく、まだ新品の硬さを保っていた。
「悪い、明日の任務について、もう少し詳しく聞きたくて」
カイは一瞬ためらったが、道を開けた。
「……入れ」
レンは部屋に入ると、きょろきょろと見回した。
その視線が、壁の小さな傷で止まった。一瞬、何かを思い出すような表情になったが、すぐに首を振った。
「狭い部屋だな」
「皆同じだ」
「そうか」
レンは椅子に座った。背筋を伸ばし、両手を膝に置く。軍隊式の座り方。
「なあ、カイ」
「何だ」
「俺、何か変なことしたか?」
レンは困ったような顔をした。眉間に皺を寄せ、首を少し傾ける。その表情まで、記憶と重なる。
「さっきから、妙に見られてる気がして」
カイは息を吐いた。
言葉が、喉の奥で詰まった。手元の端末を見下ろし、また顔を上げる。レンは待っている。困ったような、心配そうな表情で。
「いや、君は何も悪くない」
結局、カイはそう答えた。
「でも……」
「前のリーダーに、似てるんだ」
自分でも、その「前のリーダー」の顔をはっきりとは思い出せないのに、なぜか確信があった。
「顔も、雰囲気も」
レンは少し考えるような素振りを見せた。
目を細め、どこか遠くを見るような表情。そして、小さく肩をすくめた。
「そうか。それで……」
納得したような、していないような口調。
「ま、よくあることだろ。アルファは広いようで狭い」
そして、付け加えた。
「任務は任務だ。俺は俺の仕事をするだけさ」
また、その口癖。
カイは何も言わなかった。言えなかった。
それから三十分ほど、二人は明日の任務について話した。
巡回ルート、チェックポイント、注意事項。レンは熱心にメモを取り、時折質問をした。その真面目さも、集中力も、すべてが見覚えのある仕草だった。
違うのは、その若さだけだった。
疲れを知らない目。希望に満ちた声。まだ摩耗していない精神。
任務の確認を終えると、レンは立ち上がった。
「じゃあ、明日よろしく頼む」
軽く手を上げて、扉に向かう。
その背中に、カイは聞いた。
「レン」
「ん?」
振り返った顔は、無邪気だった。
「……いや、何でもない」
カイは首を振った。
レンは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「じゃあな」
扉が閉まる音。
足音が遠ざかっていく。
再び一人になった部屋で、カイは壁の落書きを見つめた。
かすれて読めない文字。いつ、誰が書いたのか。前任者か。その前か。あるいは、もっと前の……。
深夜、再びノックの音がした。
今度は、もっと小さく、ためらいがちな音。
扉を開けると、ユキが立っていた。
いつもの制服ではなく、支給品の部屋着を着ている。髪は少し乱れ、目は赤く腫れていた。
「……入っていい?」
小さな声だった。
カイは無言で道を開けた。
ユキはいつもの場所、壁際に座った。
膝を抱えて、小さくなる。部屋の照明が、銀髪に青い影を作っている。
長い沈黙。
換気口の音だけが、時間の経過を告げていた。
やがて、ユキが口を開いた。
「新しいレンと、話した?」
感情を押し殺した声。
新しい。
その言葉が、カイの中で何かを結晶化させた。
前のリーダーに似ている。任務は任務だ。よくあることだろう。第十二小隊の隊長の反応。似てる人がいた。
断片が、一つの形を作り始めていた。
「少しだけ」
カイは答えながら、ユキを見つめた。彼女の目に宿る深い疲労。それは単なる戦闘の疲れではない。もっと長い、もっと多くの何かを見てきた者の目だ。
「……そう」
また沈黙。
カイも壁際に座った。ユキから少し離れた場所に。近すぎず、遠すぎず。
天井の染みが、二人を見下ろしている。
「前のリーダーに似てるって言ったら」
カイが話し始めた。今度は、自分の言葉を確かめるように。
「『よくあることだろ』って」
ユキの肩が、小さく震えた。
顔を膝に埋め、声を殺して泣いている。涙は見えないが、震える肩がすべてを物語っていた。
よくあること。
その言葉が、カイの中で反響した。そうだ、よくあることなのだ。同じ顔、同じ癖、同じ言葉。死んだ者の代わりに現れる、新しい同じ者。
カイは動かなかった。
ただ、そこにいた。
慰めの言葉も、質問も、何も口にしなかった。理解が、ゆっくりと心に沈殿していく。
しばらくして、ユキの震えが収まった。
顔を上げ、涙の跡を手の甲で拭う。その仕草は、子供のようだった。
カイは立ち上がり、ユキの隣に座り直した。
そして、震える体を優しく抱き寄せた。
ユキは一瞬硬直したが、すぐに力を抜いた。カイの胸に顔を埋め、再び小さく泣き始めた。
「……また」
涙の合間に、言葉が漏れた。
「また、始まる」
また。
その言葉が、最後のピースだった。
カイは何も聞かなかった。
聞く必要がなかった。
すべてが、恐ろしいほど明確になっていた。
ただ、抱きしめていた。
窓のない部屋で、二人だけの時間が流れる。
外の世界では、アルファが眠らずに動いている。監視カメラが瞬き、コンピュータが計算を続け、すべてが予定通りに進行している。
明日はまた、新しいレンと共に任務に就く。
日常は続く。
止まることなく、終わることなく。
だが、カイの中で、何かが少しずつ形を取り始めていた。
疑問。
不安。
そして、知りたいという欲求。
同じ顔、同じ癖、同じ口癖。
それでいて、違う人間。
死んだ者の代わりに現れる、新しい同じ者。
答えは、まだ見えない。
だが、いつか知りたいと思った。
たとえそれが、どんな真実であっても。
ユキが小さくつぶやいた。
寝言かもしれない。あるいは、祈りかもしれない。
「……行かないで」
カイは腕に力を込めた。
「ここにいる」
今は、それしか言えなかった。
朝は、必ずやってくる。
人工の光が夜を終わらせ、新しい一日を告げる。
カイは、まだ知らない。
自分が開きかけている扉の向こうに、何が待っているのか。
その扉が、一度開けば二度と閉じられないものだということも。
天井の染みが、すべてを見ていた。
変わらない染み。
最初からそこにあり、これからもそこにある染み。
まるで、時間の証人のように。
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