第2話 高野聖 1
アブラゼミの鳴き声で目を覚ます。寝汗がひどく自分の汗でいくぶん重くなり、背中に張り付いたタンクトップをはがしながら半身を起こす。扇風機のスイッチを入れてもう一度、布団の上にあおむけに倒れる。
「日本の夏はどうしてこんなに暑いんだ」
そんな難しいことが俺に分かるはずもないが、わかったところで何に役にも立たないだろう。俺にできることといえばその現実を素直に受け入れ、妥協して生きていくことだ。
しかし、夏というのは実にやっかいなものだ。何しろ日が昇るのが早すぎるのだ。暑すぎるせいで朝早くに目覚めてしまったというのに、外はもうすっかり日が昇っている。これでは朝の時間をゆったりと過ごすことができないではないか。
枕元のスマホを手繰り寄せ、時間を確認する。
――八時十二分。
時間を確認して目をつむり、全身に滲む汗を必死で抑えようとする。
さて、どうしたものかと考える。結果、考えている暇などないという結論に至る。
俺は猛ダッシュで着替え、一階のリビングへ降りた。
妹はもういない。
母親が怪訝そうな顔でこちらをうかがう。
「どうしたの? そんなにあわてて」
そんな母の顔をチラ見して「おはよう」。次にテーブルの上に置かれた牛乳を一気に飲み干し、その横にあるサンドイッチを掴んでラップにくるみ、鞄に押し込む。「いってきます」と、それだけを告げて玄関を飛び出した。
玄関先からあたりをぐるっと見渡すが、やはり妹の姿は見当たらない。
「やってしまったか……」
呟いて、玄関脇に止めてある自転車を押して道路に出たところに妹は立っていた。
「もう! おそーーーい!」
趣味で集めているピンバッチをたくさんつけたスクールバッグを両手で持ち、地団太を踏みながら妹は怒っていた。
俺の妹、四谷美愛(よつや みあ)は三つ年下の高校一年生。くせ毛の茶髪は誰の遺伝か知らないが、本人はコンプレックスに思っているらしい。思い切ってバッサリと短く切ったのだが、それがまた〝いつでも元気な四谷美愛〟のイメージにぴったりだった。そんな俺をシスコンだと蔑むなら蔑むがいい。どうせ俺にはカワイイ妹を持った兄に対する嫉妬にしか感じない。
わざとらしく両ほほを膨らませ、不満をアピールしている美愛に手を差し出し、両手のひらでその膨らんだ頬を挟み込む。
「ぶーーー」
と口からこぼれ出す音に思わずにやけてしまいそうになる気持ちをおさえて、なるべく平常を装った。
「学校、遅刻するぞ」
美愛の鞄を受け取り、自転車の前カゴに放り込むが、たくさんついたピンバッチの一つ、茶虎の猫のピンバッチが金網のカゴに引っかかって上手く収まらない。「くそ、こんな時にかぎって!」小さくつぶやいて、無理やりに押し込むと自転車にまたがった。そして当然のように荷台に美愛が腰かける。半身をひねって俺の体に手を回し、しっかりと捕まる。夏服の半そでシャツから伸びる両手は、冷え性のためか夏でも冷たい。
妹の通う高校は俺の大学と家との途中にある。歩いて通えない距離ではないが、一度遅刻しそうになった時に自転車の後ろに乗せてやったことがきっかけで、味を占めた美愛は毎日のように俺の自転車の後ろに乗るようになった。そのくせ、時々俺が寝坊をして家を出るのが遅いと、「もう、歩いてだと絶対に間に合わない!」と言って俺をせかすのだ。はじめから歩いていくつもりなどないクセに。
その日も寝坊したせいで、俺は少しばかり急がなければならなかった。当然歩いていけば美愛は遅刻間違いないだろうし、自転車で送ってやったところでぎりぎり間に合うかどうかというところだ。
なるべく全速力で自転車をこぐ。幸い妹は随分小柄で、痩せている。おかげで後ろに乗せていて重さを感じたことはない。そのままペースを崩さず高校の近くまでやってきたが、それでも時間的にはギリギリだ。
高校の前には長い坂があり、俺が送ってやるのはここまでだ。いくら俺の体力があろうが、二人乗りで坂道を速く走れるわけもなく、さすがの美愛も自転車を降りて手を振った。
そして無事、美愛が学校に間に合うように送ってから大学に向かうことで、うまい具合に一コマ目に間に合う時間となっている。
昔からあまり友達作りが得意ではない。ちょっとした体質のせいでそれは仕方のないことだった。中学生時代にいた数少ない友達も地元の高校に通うことで何とかつながってはいたが、その友達も大学に入るといよいよいなくなってしまった。
そんなときに幼馴染の柳田遠乃と再会したのは、まさに僥倖だったと言えるだろう。
はじめは背が高くてモデルみたいな女がいるなと思い、ついつい目で追ってしまった。男の性だ。そのとき相手が突然振り返り、互いの視線はぶつかった。
俺は下心があったと問い詰められるのも嫌で、急いで視線をそらし何事もなかったように演じて見せた。
しかし、視界の隅でその女はずんずんとこちらに向かってくる。内心冷や汗をかきながらうまく弁明できないかと考えていたところ「もしかして海斗?」と女が言った。記憶にない相手から自分の名前を呼ばれたときは、なにかの詐欺かと思った。
「ほら、私だよ私。昔隣に住んでいた柳田だよ」
「柳田、さん?」
聞き覚えのあるその名を頼りにもう一度、そのモデルのように整った顔を見る。
モデルというのは言いえて妙である。すっきりとした鼻立ちに切れ長の眼。身長も女性にしてはかなり高い。俺と大して変わらないほどだ。一言で言えば男性的でもある。
「ああ、柳田!」
「思い出してくれた?」
幼いころに隣同士だった家に柳田という子がいて、幼いころは毎日のように一緒に遊んでいた。外見も性格も男っぽい子で、事実俺は男だと思って一緒に遊んでいたのだ。小学校に入り、柳田が女の子であることを認識し始め、学年が上がっていくたびに少しずつ疎遠になっていき、あまり会話もしなくなった。高学年になったころ突然引っ越していなくなってしまい、それからずっと会っていない。
「確か、岩手の方に引っ越したんじゃ?」
「うん、三年前くらいにはこっちに帰ってきてたよ。なになに? それなら連絡の一つでもよこせって言いたいみたいだけど」
「いや、そういうわけじゃない」
少し驚いて言葉がうまくでなかっただけだ。正直こんな美人になっているだなんて考えてもみなかった。かといって、昔は男友達として扱っていた相手だ。成長して美人になっていたから好きになるかと言えば、そんなことはあり得ない。現実は下手なラブコメのように感情は動かない。
ただ、どう接していいのかがわからない。昔のように男友達として接するべきか、女として接しなければいけないのか。
でも、そんなことは全くの杞憂だった。柳田は昔のようにただの友達として接してくれた。こっちも変な気を遣わずに済む。
「そう言えばさ、海斗は今、恋人とかいるの?」
「い、いないよ。悪かったな」
「いや、悪くない悪くない、むしろ都合がいいよ」
都合がいい。なんて言葉につまらない期待を抱いたことは認める。そんな事態になれば飛びついてしまうのが男の純情というやつだ。下手なラブコメなら、こんな時にどういうべきなのだろうか。
「な、なんだよ、柳田が立候補でもするっていうのか?」
「はあ? なんでそうなるのよ。悪いけど私は再会した幼馴染が根暗なイケメンにな
っていたからって恋に落ちるようなラブコメ脳はしてないよ」
そりゃあそうだ。少し期待してしまった自分が恥ずかしい。
「もちろんそれには同意する。つか、今俺のことイケメンって言った?」
「根暗って言ったんだよ」
「クールなイケメンっていう意味か?」
「相変わらずポジティブだね」
根暗とクールにはっきりとした線引きがあるのか知りたいところだ。つか、イケメンって単語を使ったことはあくまでもなかったことにするんだな。
「で、結局俺に恋人がいないことの何が都合がいいんだよ」
「あのさ、海斗にぴったりの子がいるんだよ。一度会ってみないかな?」
「うわあ、期待できない奴だあ」
これまで女子の紹介するかわいい子というやつに当たりがあった試しがない。自分よりもはるかに見劣りする子を紹介して、紹介した自分を崇めろと言わんばかりの事件に何度も遭遇したことがある。
しかし、柳田はそんな俺の心を見透かしたように食指を立て「ノン、モナミ」と言った。まるでベルギーの名探偵のように。
「それがさあ、めっちゃ可愛いんだよその子」
「騙されるものか。そう言うのってさ、可愛くないのが相場だろ。絶対に自分よりは
見劣る子しか紹介しない」
「私が自分より美人を紹介しなきゃならないってなると、それはもはや不可能だよね」
「お前相変わらずポジティブだよな」
久しぶりに会ったというにもかかわらず、言葉を詰まらせることもなく会話が弾むというのは心地のいいものだ。ずっと逢っていないというのが嘘で、長い間ずっと近くにいたように錯覚する。
久しぶりの再会そのままの勢いで連れられて行ったカフェ。柳田の言う『めっちゃ可愛い子』上田明菜はそのカフェで働いていた。柳田とは同じ高校に通っていたらしく、偶然にもその高校には今、美愛が通っている。二人の卒業と入れ替わりに美愛が入学したために面識はなく、話題はいまいち盛り上がらなかった。それでも、日を置いて何度か通ううちに、少しずつではあるけれど打ち解けられているという実感はあった。俺が言うのもアレなんだが、上田は積極的にしゃべるようなタイプではない。
彼女は確かにかわいらしい子ではあるのだが、正直言って俺の好みかといわれれば何とも言えない。
腰まで伸びた長い黒髪に黒い瞳。清楚可憐でおとなしい印象を受ける。白磁のような白い肌は外出を好まず、内向的な生活をしている象徴だとさえ感じられた。しかし俺の好みはどちらかというと積極的な態度で気兼ねなく自分を押し出してくるようなタイプだ。俺自身あまり社交的なタイプではないし、会話を盛り上げるためにいろいろ話題探しをするのも億劫なのだ。
だけど、柳田の言った一言で、俺は上田明菜に深く興味を持った。
「明菜はね、幽霊が見える体質なの」
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