柳生忍群の女

 単身でが真之介を訪ねてきたのは、大晦日の早朝であった。あと一日で新年を迎える。ということは、世のひとびとは、すべて一歳年長になるのだ。新年とともに一歳としをとる。その意味では大晦日から元旦へのときの流れは、その一瞬一瞬が過去への訣別と新たな一歩を踏み出す祝祭のひとときともいえた。

 あえて大晦日におとのうたの意図はわからない。彼女は少年を一人伴っていた。少年と形容していいのか、青年へ向かうその過渡期にいるのか、真之介には見定め難かった。十六、七といったところであったろうか。

 床の間を背にした真之介の左右には、やや下がって木下太左衛門、おヨネ婆が座している。太左衛門は宗匠頭巾をかぶり、商家の隠居ふうの出で立ちで、婆もまたとこぞの武家の女あるじのごとく正装している。

 矢七の姿はない。年越しの準備で下男下女たちを指図して料理や晴着の直しなどに余念がない。代わって、楓と菊乃のふたりが、後方に控えている。

「……まずは」

 丁寧に挨拶のことばを述べたあとで、は同行者を紹介した。

「わたくしの弟……のごときものでございます」

 すると、すかさず少年は、

「お初にお目もじいたします。柳生大膳だいぜんと申します。よしなにお引き立て賜わりますようお願い申し上げます」

と、流暢にまくし立てた。いや早口ではない。おそらく言い慣れていたのであったろううたいの歌詞をそらんじるかのような音質に真之介はしばし陶然となった。

 返辞ことばを発しないその真之介を不審げにみながら、はこほんと咳をひとつ放った。

「や……失礼……」

 顔を赤らめた真之介は、それでもへの敵意を失せさせはしない。

「……けれど、そちらに、何度も何度も、いのちを狙われた。黒装束か白装束か柿色かは知らんが、いま、こうして、話していられるのが、ふしぎなほどだ」

 ことばを短く区切って喋るのは、真之介の怒りの成せるゆえんである。

「ほほほ」

 突然、高らかに笑い立てたは、これみよがしに大きな吐息を吐いた。

「あれしきのことは、いのちのやりとりとは申しませぬ。かりに、本気ならば、あなた様は、いま、こうして呑気に茶などをすすってはおられなかったはず」

「な、なにぃ……! あれで手を抜いたというのか!」 

「さようでございます。これから世に出られんとされる御方へのはなむけとお考えあれかし……」

「ま、まだ、そんなことを……」と、喰ってかかろうとした真之介をとどめたのは木下太左衛門であった。

「ひゃ、さすが、さすが、柳生の姫はことばの剣さばきもするどうございますなぁ」

「姫などではございませぬ」

「したがのいいなずけと申し立てと聴いておるが……」

 太左衛門なりの策戦なのか、真之介を“若様”と呼びつづける深謀は真之介にはわからない。

「それはこちらののご器量のほどを確かめんがため」

 いけしゃあしゃあとは、このときの《ふさ惠》の態度そのものであったろう。悪びれることもなく、おのが行動の正当性を追及せんとする姿勢には、この場にいた誰もが唇を噛み締めざるを得ない。

「……ほ、それで、確かめた器量のほどは如何いかに?」

 太左衛門はとの会話をどこかで愉しんでいるようにもみえる。

「可もなく不可もなく……」

 このの鋭い一言いちげんには、さすがに当の真之介さえ思わず吹き出しそうになってしまった。

「そりゃあ、おれの口癖だ」

「と、申されますると?」

「まわりから県の腕前をたずねられたとき、おれはいつも、可もなく不可もなく、と答えてきた」

「な、る、ほ、ど……」

 は表情一つ変えずにいった。その隣では、柳生大膳のほうがぶるっと肩を震わせている。笑いを噛みしめていたのか、を叱ろうとしたのかは真之介には見定めがたい。

「して、まことの名をおもらし願えまいかの」

 頃合いをはかったかのように、太左衛門がいた。

「木村……木村ふさ惠と申します」

 すると今のいままで貝のごとくに口を閉ざしていたおヨネ婆が、

「なるほど、ようやく、合点がゆきましたぞ」

と、武家女口調で口をはさんだ。

「紀州徳川家……でございますね」

 婆はあくまでも高貴な武家の婦人を演じていた。

 驚いたのは真之介で、

「なぜ、このおれが、紀州徳川家なんかに狙われなきゃならんのだ?」

と、叫ぶようにつぶやいた。

「ですから、そちらのの値踏みのため、と、さきほど申し上げました」

 も引き下がらない。するとおヨネ婆が、太左衛門の顔をみながら、ひとりごちた。

「たしか……先代柳生家当主様の門弟筆頭に、木村なしがし様がおいでであられました。紀州で召し抱えられなされたとか」

 その声にすかさず太左衛門が応じた。

「おうよ、おうよ、木村友重ともしげさまでしたなあ。すると……その御一族であろうか」 

「そこまでご存知とあらば、もはや隠し立ても無用でございますね。亡き友重は、わたくしの祖父でございました」

 さらには続ける……。

「さて、、そろそろお覚悟を決めていただきとう存じます」

「か、覚悟……と?」

「すでにご自身の御身分については、そこなる翁媼おふたり様よりお聴き及びと存じますゆえ、ここではつまびらかにはいたしませぬが……」

「いや、待て待て、おれはなぁんも聴いてはおらぬ、教えてもくれない……」

「ではそのことは、のちほどお二人からじっくりとお聴きくださいませ。わたくしが申し上げたいのは、今夜を堺に、年があらたかになれば、どうぞ、お名前も改めなさるがよろしい……と、これが、われらが紀州徳川家の意向にてございます」

 一方的に喋り続けるの内容が、まったく真之介の頭裡あたまのなかには定着しなかった。なにを指摘しようとしているのか、さっぱり分からず、真之介は太左衛門とおヨネ婆に助けを求めようと視線を流したが、ふたりは示し合わせたかのようにとぼけつづけている。

「ええと……」

 しどろもどろで真之介が口を開きかけたとき、のさらなる短い口撃がはじまった。

「明日からは、どうぞ、胸をお張りになり、徳川真之介……とお名乗り遊ばされますよう、い願いたてまつります……」

 真之介は震えた。

 寒さのせいではない。

 大袈裟に頭を畳に擦り付けんばかりに平伏すると柳生大膳のふたりが災厄神の使徒のようにおもえてならなかった。

 

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