柳生忍群の女
単身でふさ惠が真之介を訪ねてきたのは、大晦日の早朝であった。あと一日で新年を迎える。ということは、世のひとびとは、すべて一歳年長になるのだ。新年とともに一歳としをとる。その意味では大晦日から元旦へのときの流れは、その一瞬一瞬が過去への訣別と新たな一歩を踏み出す祝祭のひとときともいえた。
あえて大晦日に
床の間を背にした真之介の左右には、やや下がって木下太左衛門、おヨネ婆が座している。太左衛門は宗匠頭巾をかぶり、商家の隠居ふうの出で立ちで、婆もまたとこぞの武家の女
矢七の姿はない。年越しの準備で下男下女たちを指図して料理や晴着の直しなどに余念がない。代わって、楓と菊乃のふたりが、後方に控えている。
「……まずは」
丁寧に挨拶の
「わたくしの弟……のごときものでございます」
すると、すかさず少年は、
「お初にお目もじいたします。柳生
と、流暢にまくし立てた。いや早口ではない。おそらく言い慣れていたのであったろう
「や……失礼……」
顔を赤らめた真之介は、それでもふさ惠への敵意を失せさせはしない。
「……けれど、そちらに、何度も何度も、いのちを狙われた。黒装束か白装束か柿色かは知らんが、いま、こうして、話していられるのが、ふしぎなほどだ」
ことばを短く区切って喋るのは、真之介の怒りの成せるゆえんである。
「ほほほ」
突然、高らかに笑い立てたふさ惠は、これみよがしに大きな吐息を吐いた。
「あれしきのことは、いのちのやりとりとは申しませぬ。かりに、こちらが本気ならば、あなた様は、いま、こうして呑気に茶などをすすってはおられなかったはず」
「な、なにぃ……! あれで手を抜いたというのか!」
「さようでございます。これから世に出られんとされる御方への
「ま、まだ、そんなことを……」と、喰ってかかろうとした真之介を
「ひゃ、さすが、さすが、柳生の姫はことばの剣さばきも
「姫などではございませぬ」
「したが若様のいいなずけと申し立てと聴いておるが……」
太左衛門なりの策戦なのか、真之介を“若様”と呼びつづける深謀は真之介にはわからない。
「それはこちらの若さまのご器量のほどを確かめんがため」
いけしゃあしゃあとは、このときの《ふさ惠》の態度そのものであったろう。悪びれることもなく、おのが行動の正当性を追及せんとする姿勢には、この場にいた誰もが唇を噛み締めざるを得ない。
「……ほ、それで、確かめた器量のほどは
太左衛門はふさ惠との会話をどこかで愉しんでいるようにもみえる。
「可もなく不可もなく……」
このふさ惠の鋭い
「そりゃあ、おれの口癖だ」
「と、申されますると?」
「まわりから県の腕前をたずねられたとき、おれはいつも、可もなく不可もなく、と答えてきた」
「な、る、ほ、ど……」
ふさ惠は表情一つ変えずにいった。その隣では、柳生大膳のほうがぶるっと肩を震わせている。笑いを噛みしめていたのか、ふさ惠を叱ろうとしたのかは真之介には見定めがたい。
「して、まことの名をおもらし願えまいかの」
頃合いをはかったかのように、太左衛門が
「木村……木村ふさ惠と申します」
すると今のいままで貝のごとくに口を閉ざしていたおヨネ婆が、
「なるほど、ようやく、合点がゆきましたぞ」
と、武家女口調で口をはさんだ。
「紀州徳川家……でございますね」
婆はあくまでも高貴な武家の婦人を演じていた。
驚いたのは真之介で、
「なぜ、このおれが、紀州徳川家なんかに狙われなきゃならんのだ?」
と、叫ぶようにつぶやいた。
「ですから、そちらの若さまの値踏みのため、と、さきほど申し上げました」
ふさ惠も引き下がらない。するとおヨネ婆が、太左衛門の顔をみながら、ひとりごちた。
「たしか……先代柳生家当主様の門弟筆頭に、木村
その声にすかさず太左衛門が応じた。
「おうよ、おうよ、木村
「そこまでご存知とあらば、もはや隠し立ても無用でございますね。亡き友重は、わたくしの祖父でございました」
さらにふさ惠は続ける……。
「さて、若さま、そろそろお覚悟を決めていただきとう存じます」
「か、覚悟……と?」
「すでにご自身の御身分については、そこなる翁媼おふたり様よりお聴き及びと存じますゆえ、ここでは
「いや、待て待て、おれはなぁんも聴いてはおらぬ、教えてもくれない……」
「ではそのことは、のちほどお二人からじっくりとお聴きくださいませ。わたくしが申し上げたいのは、今夜を堺に、年があらたかになれば、どうぞ、お名前も改めなさるがよろしい……と、これが、われらが紀州徳川家の意向にてございます」
一方的に喋り続けるふさ惠の内容が、まったく真之介の
「ええと……」
しどろもどろで真之介が口を開きかけたとき、ふさ惠のさらなる短い口撃がはじまった。
「明日からは、どうぞ、胸をお張りになり、徳川真之介……とお名乗り遊ばされますよう、
真之介は震えた。
寒さのせいではない。
大袈裟に頭を畳に擦り付けんばかりに平伏するふさ惠と柳生大膳のふたりが災厄神の使徒のようにおもえてならなかった。
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