徳川の落とし子

進むも多難、退(ひ)くも多難


【進むも多難、退くも多難】


 大晦日の夜には人通りがなくなる。この時代には“初詣はつもうで”の風習はない。の家の家長が元日の朝まで、の氏神様の祠や社にこもって、過去一年を無事に過ごせた御礼とこれからの一年の安全を祈願するのだ。これを年籠りとしごもりといった。

「若さま……はどう過ごされます?」

 矢七はすっかり自らを侍衛じえいおさと位置づけ、そのあらたな役割を気に入っているようである。

「なあ、しちさん……」

「はい?」

「その、若さまというのは、よしてほしいんだ。せめて、七さんだけでも、いままでどおり、真さんで通してほしい」

「さ、さようでげすかぁ」

 一応は否定しつつも、矢七は自分が真之介から特別扱いされていることに感激しているようで、が置き捨てていった少年……柳生大膳をちら見しつつ、おのれの優位をことさら見せつけている。

 柳生大膳はほとんど喋らない。

 かつての文太のように喉奥に人工的な措置をされているわけではなく、もともと寡黙の性向たちのようであった。護衛に……とは言い残して、置いてけぼりにされた本人どう感じているのか、その心情に真之介は興味をおぼえた。

 色白で剣客とはおもわれない華奢な体つき、うなじの白さ、中性的な物ごしと挙措きょそのやわらかさ……なんとも貴公子然とした大膳だいぜんは、そこにってそこにらざるもののように真之介にはみえた。

(もしかすれば……これが柳生新陰流の奥義なのか)

 ふとそんなことを真之介はおもう。

 あの寺田文右衛門から教わった奥山一刀流も、元を正せば柳生と同じ新陰流なのである。流祖の奥山休賀斎きゅうがさいは、上泉信綱から新陰流を伝授されている。その休賀斎は、徳川家康の剣の師でもあった。

(だが奥山一刀流は、なんというか、ざわざわしていた……大膳から漂ってくる気配とはまったく異なる……)

 休賀斎の時代はまさしく殺伐とした戦国乱世である。一方、柳生家で開眼させた新陰流は、真之介からみれば、ざわざわした感触より、さらさらしたとしか形容できないものであった。襲撃者の剣は、が語っていたように本気度が低かったのかもしれない。こちらの器量を試すゆえだと言っていたが、たしかに殺気の異様さはなかったはずである。

(ふうむ、できれば、このだいさんからもまなばせてもらいたいものだ……)

 そんなことを考えている真之介には、大膳には敵意のひとかけとて向けてはいない。

 木下太左衛門とおヨネ婆のふたりは連れ立って出かけているようで、その隙をぬって主だったものを広間に迎えた。文太、楓、菊乃、矢七……そして、昨夜、到着した小野寺次郎右衛門もいた。

「かの寺田文右衛門さまから、寺田の姓をいただきました。これからは、小野寺次郎右衛門改め、寺田左兵衛と名乗ることにいたしました……」

「そしてそして、そして……」と、矢七が左兵衛のことばをつないだ。

「あっしも、寺田姓を賜りましたそうで、寺田矢七……この新しき年から、気持ちもあらたに進みます……です」

 さしずめ寺田新兄弟というところか。それから真之介は、柳生大膳も呼び招き入れた。

「さて……昨日、木村どのから、紀州徳川家からの意向として、おれに、徳川真之介と名乗れ……と告げられた」

 単純に考えれば、真之介は紀州徳川家に連なる者と仮認定された、ということになるであろう。

「けれど、そんなこと、はなっからまったく信じてはいない」

「ええっ、せっかくの話ですのに……」

 矢七が不服げに声をあげた。静まり返ったなかで思ったままを直言ちょくげんできる矢七は、真之介にとっては得難い人材だった。

「前にもいったことがあるかもしれないが、降って湧いたように落胤の噂が蔓延したとき、おれは、こうおもった、これは、きっと本物の御落胤若さまを護るために、おれを生け贄……そう、人身御供のように仕立てあげたのだと……。そして、さんがわざわざ紀州徳川家の名を持ち出したとき、やはり、ほんものの若様はどこかにいるはずだ……というおもいがより強くなった……」

 珍しい長冗舌ながじょうねつの真之介は、それから数点の疑問点を述べ立てた。

 一つはおヨネ婆が、その真実はともかく、いまは老中阿部備後守の内意を受けて動いていること。

 二つめは、まだ会ってはいない幕領代官の長谷多聞たもんは、老中筆頭の酒井雅楽頭うたのかみと懇意であるらしいこと。しかも、柳生新陰流の高弟の一人であること。

 三つめは、かりに紀州徳川家だけの落胤騒動であるならば、それら藩内だけの問題であるはずなのに、なにゆえ、幕閣首脳がそれに関わろうとしているのか、そこがいまだに不明であること……。

「……だから、これは単純な話ではないとおもう。そのことはみなも知っておいてほしい。この先、おれと行動をともにすればするほど、いのちの危険が増していく……そのことも考えた上で、それぞれがどうしたいのかを、じっくりと考えてほしいんだ」

 そこまで言うと、

「ではしちさん、宿が用意してくれた料理をみなで味わおう。せっかくだから、ほかの者も呼んでくれ」

と、真之介は白い歯をみせた。

 微かなどよめきのなかで、この新しい年の一日、寛文五年(1665年)、乙巳きのとみの年がはじまった……。

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