仇討ちの背景
……その頃、真之介は女将のとくに手を引かれるように二階の納戸へ招かれた。というより、
「源さん……が若様に聴いてもらいことがあるそうなので、ご足労いただけますか」
と、告げられていたので、とくに拒否する理由も見当たらなかった。
雨だれの音が消えたかとおもうといきなり激しく響き渡るのはそれだけ風の強弱と向きが変わるためであろう。
部屋に入るととくはそのまま出ていった。
源吾はじろりと真之介を一瞥すると、卓袱台の前に座るように目で促した。真之介も黙したまま対面した。
「名乗りが遅くなった。わしは
「
「さようか……
「それも詳しくはいえぬ。わけありでな」
「まだ若いとみゆる……小野寺とほぼ同じぐらいかの」
「…………」
初対面のときとはちがい源吾の物腰はやわらかい。意識してそう振る舞っているように真之介には映っている。
田所源吾は舟人夫を二十七人束ねているが、藪坂藩の関所役人
「どこもかしこも複雑そうですね」
淡々とした口調で真之介は応じた。源吾の変化を感じ取り、こちらも理解したと相手に伝えようともしている。
この納戸の下は
「まずは……あれを見よ」
源吾がしゃくれた顎で川側を指した。
「や……!」
さすがに真之介も息を呑まざるをえない。後ろ手に縄で縛られ、猿ぐつわまで噛まされていた。
「あれは誰です?」
「名は言わぬ、年老いた男を装ってはいるが、女人だ……それを見事にあばいたは、おぬしの妹に扮している琴絵とか申すおなごだ」
「あ……!」
「偽の兄妹ということは、女将が見抜いている。いまさら隠しだては無用ぞ。なるほどわけありだな」
「あれをいかがなさる?」
すこし真之介の物言いも丁寧になった。ここはしたでにでて源吾の真意を見極めねばなるまい。言いながらその老人に近づいてしゃがみ込んだ真之介は、
「な、なんと……!」
と、
「おぬしの存じ寄りの者か?」
源吾は訊く。
「ま、いささか因縁ある者だ……これをおれにさげ渡してくれまいか」
「好きにせよ。そのつもりでおぬしをここに呼んだ。じゃが、その前にこちらの要望にも答えてもらわねばならぬ……小野寺次郎右衛門から手を引け!」
「仇討ちの助太刀はするなというのだな」
「そうだ……わしは……小野寺に討たれてやるつもりだ」
「はあ……?」
真之介の口から洩れ出たその吐息が雨だれの音に消された。
「一昨日のことだ。早朝、雨の中、小野寺次郎右衛門が川に飛び込むのを見た。偶然だが、これも天意というべきだな。わしが飛び込み、救い上げた……」
「や……小野寺は死ぬ気だったのか?」
「たまたま小降りであったからわしが気づいた。いつものごとくどしゃ降りであったなら、小野寺はもうこの世の人ではなかったはずだ。そしてその次の昼、小野寺がおぬしに助太刀を頼んだ……」
「そ、それでも討たれてやるというのか?」
「そのつもりだ……そもそも、わしは小野寺の兄を殺してはいない」
源吾が答えた。
複雑な人間関係のもつれた糸がほどけようとしていた……。
「すべては酒の上での誤解……」
源吾は言う。弁解めいた口調ではなく、ふしぎと淡々としている。
「ま、みんな酒のせいにするってもんさ」
真之介がいった。意外にも源吾は否定しなかった。
「……かもしれぬ。やつは……太郎右衛門は、小野寺家伝来の宝刀を自慢していたのだ。抜いてわしに見せようとしたとき、つまずいて、おのが左肩を斬ってしまった……ただそれだけのことだ。慌てて介抱しようとしたら、やつの弟が騒ぎを聴いて駆けつけてきよった。深手ではないようだったので、あとは親族にまかせればよいと立ち去ったが、その夜、太郎右衛門は死によった……」
そこで源吾は口を閉ざした。
「ではなぜそのことを小野寺次郎右衛門に伝えぬのだ?」
「告げずとも、弟は兄の死因を知っておろうよ。だから、やつは死のうとしたのだ……わしが
「だが……おれに助太刀を頼んだぞ」
「それも不思議なこころの動きかもしれぬ。あえて、仇討ちの場をしつらえ、わしに斬られようと決意したのやもしれぬの」
「そこまでわかっても、討たれてやるというのだな」
「わしと違い、あいつはまだ若いからの。生かしてやりたい」
「それもよくはわからぬが……これだけは誓おう。仇討ちがどうなろうと、そののちも、おれが小野寺次郎右衛門のそばについていてやろう」
真之介の
「源さん……と呼ばせてもらう。源さんにも討たれてほしくはないんだ。そのためにも、おれが、小野寺さんの仇討ちに助力しなければならぬ。いまは、それしかいえない」
「意味がみえぬが、本気だとはわかった」
「悪いが出ていってくれないか。おれは、こちらに用がある」
縛られたままの老人はいつの間にか縄を解いていた。それに気づいた源吾は、それでも無言のまま部屋を出て戸を閉めた。
「さて、これはどういうことなのか、説明してくれないか」
真之介がいった。
「なあ、わざわざ源さんに縛られたのは、このおれに会うためなんだろう?」
「…………」
「それにしてもなぜおまえがこの宿にいるのだ。城からいわくありげな書状を盗み出したのが、かりにおまえだとしても、なにゆえ捕まえてくれといわんばかりにおれが来るのを待っていたのだ?」
「…………」
「な、教えてくれよ、おヨネ婆さんよ」
半ば苛つきながらも真之介の目には怒りはなかった。
「そうさな」と、婆が汚い歯を真之介に向けた。
「……こちらもいまだよく呑み込めていないのさ。なぜこんな
婆の表情にも戸惑いが浮かんだ。
「まもってやる……? とはどういうことだ?」
「そういうお役目をもらってしまったのさ。ぬしは……一体、何者なのさ、え、なにゆえ、
老中とはおそらく幕閣のことであろう。一度
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます