それぞれの思惑

(仇討ちとは……)

 つい最近、大工の佐吉父娘おやこが仇討ちを果たしたが、それは本来の仇討ちとは異なり、多分に偶発的なものであった。かつて真之介はほんものの仇討ち騒ぎをたことがある。五、六歳の頃であろうか。

 橋の上であった。浪人二人が抜き合い、そのまま同時に倒れた。瞬時せつなの出来事で、腕が拮抗きっこうしているときには、往々にして悲惨な相討ちとなるが、ともに事切れることはまれであって、斬られ斬り付けその激痛にもだえながら地を転がるのである。運がよければ生きながらえることもあろうが、それはそれで地獄の苦しみである。

 たしか、そのおり、そばにいた当時の鞍馬御坊ごぼうは、幼い真之介にこう語ったはずである。

『……相手の腕を見切って、かなわぬと感じたら、ただ、ひとつ、勝つ妙手がある。それはの、一目散に、逃げることじゃよ』

 負けて勝つ。

 逃げて勝つ。

 鞍馬古流の剣の師匠ともいうべき御坊が、そのようなことを教えさとしてくれたはずである。

 ……こんな遠い昔のことを真之介が思い出したのは、宿の女将の願いを聴いて、まずは浪人部屋にいた仇持ちの青年に経緯いきさつをたずねたからである。そして青年はあろうことか真之介に仇討ちの助太刀を請い願うありさまであった。

「……それがし、小野寺おのでら次郎右衛門じろうえもんと申します」

 ……小野寺は赤穂藩士。江戸藩邸で同僚に兄を討たれたのが十一年前。それから仇を捜し追い求めてきたらしい……。

「十一年!」

 思わず真之介は嘆息の声をあげた。

「いえ、旅に出たのは元服げんぷくを済ませてからのことですから、ほぼ六年余……。この止まない雨のおかげで、憎き仇と相見あいまみえることができました」

 小野寺の口調は、すこぶるたいらかで、気負い立ったものは含まれていない。奇しくも真之介と同歳か、ひとつ違いほどでしかない。

 小野寺はどうみても、番方ばんがたではなく、役方やくがたの侍であろう。番方とは、軍事のことをす。帳面仕事や行政管理が、役方である。〈役人〉の言葉はここから生まれた。

かたき……は、いずれに?」

 つい身に詰まされて、気づいたときには真之介の口からそんなことばが出ていた。

 といって依頼を引き受けたわけではない。

 けれど、興味は尽きないのだ。

 想像だにしなかった出来事のために、おのが運命を狂わさせられてしまう不運というものは、真之介にとっても他人事ひとごととはおもえない。

 そのときである。

 音を響かせて襖が開かれたかとおもうと、血相を変えた男が飛び出してきた。

「仇討ちの相手というは、このわしだよ!」

 男は舟人夫を束ねている源吾げんごであった。

(あ、さんがいっていた源さんだな)

 肩幅が広く両肩が上に突き出ているかのようにみえるのは、鍛練を欠かさないでいた証であったろう。剣の腕までは判定できないまでも、とうてい小野寺次郎右衛門がかなう相手ではあるまい。そうおもうと、次郎右衛門に手を貸したくもなってくる……。

 黙ったまま源吾を観察していると、

「おい、おまえ、横路よこみち藩重臣の若さまかなにかは知らねども、らぬ口出しは無用に願いたい」

と、真之介を睨んだ。女将のに真之介は横路藩の間者だと嘘をついていた。それがそのまま源吾に伝わっていたのであったろう。

「や!」

「悪いことは言わん、小野寺から離れろ」

「あ!」

「や、とか、あ、としか言えぬのか! ええい、若さまよ、大怪我のもとだ、雨が止めば、作法通りに立ち合う所存だ。そちらも、雨が止んだら、早々に引き払うがよかろう」

「いや、おれは、若様じゃない……それにこの御仁とはいま会ったばかりだよ。もっと話を聴いてみなきゃ、なにもはじまらない」

「な、なにぃを!」

 今度は源吾のほうが唖然として、唾を散らして、なにやらわめき出したが、その逐一までは真之介の耳朶じだには届かない。

 なんとなれば、さらに二人の浪人が横から口を挟んできたからだ。

「これはこれは、おもしろうなってきよったわ。のう、われらは、舟頭ふながしらに身を落とし世の冷たい風をしのいできたという、そちらの御仁に助太刀いたすとしようかの」

「おお、それがいい! もっとも、それなりの銀子ぎんす所望しょもうさせてもらうがな」

 二人の浪人が口々に喋り出した。当の小野寺次郎右衛門は、表情を変えずその場に縮こまっていた。まるで調度品になったかのように動かない。

 真之介は意外な展開をみせたことに驚いていた。

「……それは、百人力でございますな」

 助力を申し出た浪人ふたりに言ったのは、源吾であった。

「ま、いずれにせよ、この雨は、まだ数日は止みますまい……しばし、呉越同舟ごえつどうしゅうといきましょうか」

 そんな智識まで口に出して、源吾が浪人たちのたかぶりを納めた。その様子を女将のあおざめたまま立ちすくんでいる姿を真之介は見逃さなかった。



 横殴りにねる雨のなかを蓑笠みのがさ藁編羽織わらあみはおりをずぶ濡れにして舟宿にやってきた二人……八杉八右衛門、井上善右衛門は、そのまま竈場に駆け込むと、素っ裸になった。大釜の湯に浸した手拭てぬぐいむちのごとくしばたいておのが背や腹を叩き出した。

 こうして濡れて冷えた体温を蘇らせるのだ。

「おおっ、おふたりとも、老いてもさすがに逞しい体躯からだでございますなあ」

 矢七やしちが感心して目を見張った。贅肉がつきかけてたるみも多い自分のそれと見比べて、感嘆の唸りが耐えない。

「なにが老いたり、だ。おぬしと歳はさほど変わらぬぞ」

 八右衛門が矢七を睨みつけた。矢七は三十路みそじ前、八右衛門は三十二、善右衛門でもまだ三十半ばの一歩手前といったところか。

 宿側が用意した粗末な単衣に着替えた二人に、

「おつかれさまでございます」

と、女の声が飛んできた。

「おお、木下どのか」

 答えたのは、八右衛門である。親しくはなくとも職掌柄しょくしょうがら、木下琴絵の顔は見知っている。

 八右衛門は井上善右衛門の耳元で琴絵の素性を告げた。善右衛門は無表情のままこくりと頷いた。

「おや、隣の御仁ごじんは……?」

 八右衛門が琴絵の隣に佇む長白い顔の青年を見た。すると、

「小野寺次郎右衛門と申します」

と名乗ってから、琴絵から手渡された椀をいとおしそうに両手ではさみ、ごくんと飲み干した。薬草を煎じたものだったのか、そのにおいが八右衛門と善右衛門の腹の虫を鳴らさせた。

 黙ったまま琴絵が、別の釜から粥を椀に注いだ。それを二人に渡すと、善右衛門がうまそうにすすった。

 八右衛門もごくりと呑み干してから、

「こりゃあ、うまい……なによりの馳走じゃ。ところで、しんさんの姿が見えんが……」

と、琴絵と矢七にいた。

「はい、いま、宿の女将と一緒に、客の不審な者を洗い出しているところです」

 矢七が答えた。

「ほ……さっそく宿の者を味方につけたか……おもうていたよりがんばっておるの」

「いえ、事はいささか複雑でございまして……」

 横から琴絵が続けた。

「じつは仇討ち騒動が持ち上がり……」

「ほ……仇討ちとな……?」

「はい、この小野寺様が……」と、隣の次郎右衛門を見やりながら琴絵が吐息をついた。

 仇持ちの小野寺次郎右衛門が、仇を討つ前に川に飛び込み、それを助けたのが、仇討ちの相手、いまは舟人夫として働いている田所源吾その人であった……と告げた。

 複雑すぎる事情である。

 呆れ返るべきか、神妙に悩むべきか、さすがの八右衛門も、善右衛門も頭が回らない。

 すると矢七が

「なんとも妙でございましょう? 仇討ちの相手にいのちを助けられるなどとは……」

と、ふたりに同意を促すようにいった。

「たしかにそのようなことは信じられぬ。人情しては美談にもなろうが、いささか出来すぎておるの」

 八右衛門はそう言ってから小野寺次郎右衛門の顔を睨んで、

「すべて吐露せよ」

と、凄んでみせた。

 小野寺次郎右衛門はぷいと下を向いたまま、そのままで動かない。

 一度、こうべを戻し、ふたたびうつむくと、声にはならない呟きを発した。すると、青年は姿勢を正し、その場に居ためいめいの顔を見据えてから、訥々とつとつと語り出した。

 ┅┅家宝の大刀自慢で、誤って兄の太郎右衛門が勢い余って自ら肩を斬ってしまったのは明白であった。源吾に斬られたわけでもない。その現場に真っ先に駆けつけたのは、たまたま兄を探して内々の挨拶回りをしていたこの次郎右衛門で、すぐさまひとを呼んで藩邸内の侍長屋に兄を運んだ。田所源吾に無様ぶざまにもおのれの醜態をみられた兄は、羞恥に狂ってなにごとかを叫び続けていた。

 その兄に、とどめの一刀を刺したのは、病床にいてすべての事情を察した父親であった。

 そのまま田所源吾に討たれたことにしたのは、弟の次郎右衛門に家督を継がせるためであった。すでに源吾は出奔しており、時が過ぎればこれですべてはまるくおさまったのだが、元服をすませた次郎右衛門に、兄のかたきを討てとの主命しゅめいが下ってしまったのである……。

 小野寺は続ける……。 

「……すでに父もみまかり、兄嫁も病死いたしました。小野寺の家は、わたしではなく、叔父が継ぎましたので、こちらとしては赤穂に帰るに帰れず、途方に暮れておりました。雨の中、濁流を眺めておりますと、このまま、飛び込んでやろうと、ふと、そんな気になって……」

 ……飛び込んだ途端、救い出したのが、田所源吾であったらしかった。次郎右衛門を舟宿に連れ帰り、介抱していると、次郎右衛門の鍔なしの脇差に目が釘付けになった。太郎右衛門が自慢していたれいのいわくつきの銘刀であった。それを手にとってしばらくの間黙していた源吾が、

『おまえの仇は、目の前におるぞ。なんなら、討たれてやってもいい』

と、告げたのだった。

 ……そこまで一気に語り終えた小野寺は、何度もため息をついた。

「……豪雨なのに、青天の霹靂へきれきとは、このことでした。水の中でからだをつかまれる前に、深く遠く、もぐっておくべきでした┅┅けれど、田所うじも田所氏です、よしんばそれがしの素性に気づいたとしても、そのまま気づかないふりをしておいてほしかった……」

 小野寺の長い述懐は、八右衛門や善右衛門にもそれなり感慨というものをもたらしたようである。

「それではにわざわざ助太刀を頼まなくてもようござんしたのに……」

 矢七が口を出した。小野寺はそのことばを受けて、

「ちょうどあなたが、《若様》は剣の達人だとご自慢しておられたのを耳にいたしまして……つい、話のはずみに……」

と、弁解した。その次郎右衛門はまだ仇討ちを挙行するかどうか迷っているようにもみえる。そんな曖昧な心持ちでいる姿は、事絵には腹立たしくもおもえてきた。余計な難題を持ち込んできた小野寺次郎右衛門を、琴絵は恨めしげに睨み続けていた……。


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