昨日の敵は今日の……

 ……かつて鞍馬くらまを離れるとき、真之介は幻想的な夢を見たことがあった。

 大鳥おおどりがいたのだ。

 三本足ではない……たしか五足あったはずである。

 鳥の名は……誰にもわからない、誰にもえない……はずであった。その夢に登場する顔のない人々にはその鳥は視えないらしかった。

 それは……器用にくちばしで文字を描く鳥なのである。

 大木のみきであったり、ほこりや砂塵が積もった山道のみちであったり、ときには名もなき溜池の水面にも、文字を描く大鳥である。

 夢のなかで、それはたしかに文字を書いた……くちばしで、

  出 石

と。ちょうど真之介が十歳になった初夏の頃で、すでに数年前より父(とおぼしき人物)権兵衛ごんべぇは鞍馬から出奔していた。書き置きも、言伝ことづてもなかった。したがって真之介を育てたのは、剣の師、鞍馬御坊ごぼうと周りからばれていた人物とかれの郎党ろうとうとその夫人などで、鞍馬御坊はどうやら僧侶などではないらしいことは当時の真之介も薄々気づいてはいた。

 ……その五本足の大鳥を夢にみた翌朝、夢の内容を御坊に告げると、

『ならば、しんよ、出石いずしへ旅立つがいい』

と、素っ気なく申し渡されたのだった。それから、父を追うべからずともいい、出石いづしに向かい、海沿いに鳥取まで出てから西へ進み山脈を越え山陽道へ……というのが、鞍馬御坊が示したおおまかな道筋であった。いうなればいま真之介はこの途上にある……。

 いま、鈍い痛みが真之介の後頭部にまとわりついていた。目の前におヨネ婆がいる。

「ここは……」

と、ぐるりと見回すと、そこは気絶直前までいた納戸で、移動はしていないようであった。

「気がついたか……少しだけ眠っていてもらった。ちと用をすませておきたかったでな」

「おれを襲ったのか?」

「におい袋を持っておらなんだでな、額と頸を押して気を失わせてもらった……慌てるでないわ……いまは休戦だ」

 さすがに動転しつつ真之介はおのれが置かれた情況を必死で探ろうとしている……。

「な、なにをほざく! きゅ、休戦だとぉぉお……」

 言いかけた真之介はおヨネ婆の脇腹と左太腿に血が滲んでいるのに気づいた。脇腹には大きな蔦葉が貼られている。応急処置であったろう。

「だ、誰にやられた? 源さんがやったのか?」

「源さん? いや、婆のかつての仲間じゃよ。いまは、敵対しておる」

「だからそれは誰だ?」

「この婆との共通の敵……と申しておこうか」

「は……?」

 意味が判らない。

 通常、こういう時にはよけいに警戒心をぎ澄まさせるものだが、負傷している相手を目にして緊急性が増していることだけは真之介にも理解できた。

「いまのところ、の味方は……この婆のほかはいないぞよ。藪坂の御筆組おふでぐみは、ほぼ倒されたぞ。敵はの、公儀隠密二派ふたは、鹿野藩の忍び鹿しか番衆、代官が放った鼻白はなじろ組、岡山池田藩の……」

「お、おい、ま、待て。な、なんだそれは? 次々に知らない語句を並べ立ててもおれは動じないぞ」

「ふっ、すでにおもしろきほどに動じておようぞ。この婆と悠長に喋り合っていることこそが、が動じている証よ」

「あ……!」

 真之介はそのときになって、御筆組おふでぐみが倒されたとおヨネ婆がほざいていたことに気づき愕然となった。

「こ、琴絵は……?」

「おお、あの娘か……無事じゃよ。おのが祖父と、この婆めを間違えて探し回っていたようじゃが、降ってわいたがごときおかしな仇討ち騒動のおかげか、敵も戸惑っておったようじゃ」

「祖父……あ、木下どのは? 太左衛門どのは……?」

「安心せい。あらかじめ匿って洞穴に隠しておいたわ」

「ど、洞穴?」

「しばらく見ぬあいだには問いが多くなったの」

 婆の眉間に皺が寄った。緊迫した状勢を理解しない真之介の客観能力に舌打ちしたかったのであろう。けれど以前と様子が違っていたのはおヨネ婆も同様で、真之介を豎子じゅし呼ばわりしていないことからも心境変化が伺われよう。と呼びかけているのは、真之介を仲間として遇しようという合図でもあったろうか。

 そうと薄々察してはいても、事情が複雑すぎるだけに安易におヨネ婆を受け入れることは真之介にはできないのだ。

「おまえも隠密なのだろ? 急に仲間扱いされても信じることはかなわぬぞ」

「だからじゃよ、琴絵といっておったな、あの娘の祖父を匿ってやったは、関係修復のみやげだとはおもわぬのかの」

「婆よ、よく喋るなあ……傷を負わされた身でおれに助けを求めた……というのが真相ではないのか……?」

「まだ疑うか」

さんのこともある……坊をいたぶってくれた恨みもある」

 実は真之介も喋り続けることでおヨネ婆の深層にすこしでも近づこうとしていたともいえる。

「おお、は鞍馬におるぞ」

「鞍馬……!」

の出生の軌跡を追うためじゃ」

「お、おれの……?」

「ま、それはさておき、のことが出たついでじゃ、八右衛門が宿に着いたぞ」

 おヨネ婆がいった。

 八杉八右衛門はいまだにのことを思い続けているのであろうか。それは真之介にも判らない。ただ婆のことばには、なにやら八右衛門に頼るそぶりもみえた。そのことが真之介にはなによりも不可解であった……。

さんまで味方扱いするのか?」

 ここはやはりなにごとかを喋りつづけることで、おヨネ婆とのあいだの距離を縮めるしかあるまいと真之介はおもいはじめたようであった。

「それでよい」と、婆はいった。

「……いきなりおのが立ってる場が浮ついたおりには、誰しも判断する力をうしなううものじゃ」

「なにを……」

と、真之介は反抗しかけたが、ことばが続かない。

「まずは、敵の情勢を見極めねばならぬの」

「婆よ……」

 やさしい口調になって真之介がつづけた。

「……さきほど、公儀隠密が二派ふたはと言っていたな。婆がそのうちの一派ということなのか?」

「いや、この婆は……第三の派とでも申しておこうかの」

「ん……? では、公儀隠密が三種いるというのか」

「そこよ、だから先がなかなか見通せぬ。たとえば、に近づいてきたふさ惠と申すおなごは、代官の娘などではないぞ」

「や、やっぱり……どの藩の手先だ……?」

「ふさ惠が率いておるは、柳生忍群……つまりは公儀隠密の一派ということじゃの」

「はあ?」

 ますます訳が判らなくなってきた真之介は、目の前のおヨネ婆がなにかこの世とは別の地に棲まう物の怪のごとくおもえてきた。けれど訊きたいことはまだ山ほどあった。どの道から山の頂上をめざせばいいのか、真之介には見当もつかない……。

「この婆めは……ご老中、阿部備後守びんごのかみ様配下の忍忍にんにん組じゃよ」

「はあ……? にんにん?」

「正確にはおしの忍び……」

「………」

 このとき、阿部備後守忠秋ただあきが、武蔵国忍藩おしはんの藩主であることを、一片の知識もない真之介にはわかるよしもなかった。

 

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