判らない判りたくない

 このところ八右衛門はちている。もとより、性的に、という意味ではない。いまでもとは仲ではなかった。

 始終、かれの頬が艷やかに潤っているようにみえるのも、性的な名残りではなく、おのれに対して向けられ続けてきた視線の意味合いが変わってきていることに気づいたからである。

 それはが家に居ついてくれたその効果というものであったろうか。


 ……あのような見目麗みめうるわしき女人が、八右衛門宅に居候しているその事実というものが、しぜんと耳目じもくを集めるようになったのはすこぶる当然のことで、まず、同輩なかまのかれをみる目が急に変わった。

 いままでは、八杉八右衛門のことをそこにってそこに居ないかのごとくぞんざいに扱ってきた連中が、突然、てのひらを返したかのように、冷ややかではなく、どことなく羨ましげさえある、『この男のどこにあんな美女を魅了するものが宿っているのか』と見直しつつある経過の吐息までもがれ聴こえてきそうな、いわばそういった相手の視線と挙措きょそが、いつになく八右衛門の心持ちを豊かにしていた。

 第二に、往来の町人の八右衛門に対する態度が様変さまがわりした。これまで八右衛門が遠くから歩いて来つつあるのを目にするや否や、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、できるかぎり顔を合わさないようにしていた者どもが、ここにきて立ち去ることなく、八右衛門のつらをちらりと拝むようにすらなっていた。絶世の美女が同居したいと思わせる何かを八右衛門が有しているのならば、そのおこぼれなりともあやかりたい、魅のもとを授かりたいといったあたかも神頼みにも似た心理が働いていたのかもしれなかった。

(まことに面妖なことだ……、こう、からだの奥底からむずむずとかゆさと面映おもはゆさというものがわいてくるわい)

 とまどいつつも八右衛門は悪い気はしなかった。男やもめで子持ちの、しかも追手番という他人ひとから毛嫌いされる御役目の身でありながら、周囲から注視されることが、これほど気分を良くしてくれるものなのかと、八右衛門自身、驚いてもいた。

 かりに、との関係を率直にただされたとしたら、八右衛門は思わせぶりに微笑みかけながら、

『さても、さても』

と、うたいのごとくに調子を取り、空惚けてごまかすしかできないのだから。

 このさいを後妻に……などとほんのすこしでも妄想しようものなら、それこそ後々のちのち赤恥をくにちがいないことも重々わかっているのだが、しばしの間でもいまの心地よい気分というものを維持したいものだと八右衛門なりに算段してもいた。

 ところが。

 家に戻ると、初とちえの様子がどことなくぎこちないことに気づいて、首をかしげた。

 あたかも実の母であるかのようにになついていたが、なんとも初_を避けているかのようによそよそしくさえ八右衛門には感じられたのだ。どことなく目には見えない壁をこしらえているようにかれは察し唖然とした。

 ひとの微妙な表情の動きを察する能力は、八右衛門は御役目を通じて学び取ってきた。しかも相手は血を分けた娘である。

 ちえを外に連れ出し問うてやろうかとも考えたが、めた。

 実は八右衛門なりに薄々察しがついていたのだ。

(おそらく、ちえは……初のまことの正体に気づきおったのやも……)

 そうと察しても、八右衛門には為すすべはなかった。

 初はいわば生命の恩人ともいえた。かりに初が公儀の犬、いや、隠密であろうなかろうと、である。

 ……あのとき、手際よく傷の手当をしてくれた時点で、じつは八右衛門はの正体を薄々察していたのだ。見慣れぬ薬草を煎じ練り傷に塗り込んだ手際の良さ、隙のない身のこなしよう、幕領に棲み周辺の藩の内情を探っているにちがいあるまいと八右衛門は踏んでいた。いま、初が藪坂やぶさか藩領に足を踏み入れたのも、なんらかの使命達成のためであったろう。

 そうと推測してはいても、大きな借りを返さないうちはどうしても初を粗略には扱えなかった。

 それに、このまま、しずかに、三人での暮らしを続けてみたいとも八右衛門は思いはじめている。

 職務一筋に生きてきた八右衛門にとっては、ほんのささやかで、つましい願いであった。初と夫婦にならずともいい。一緒にいてくれるだけでいいのだ。それが叶うものならば、性欲の衝動など抑えてみせようともおもっていた。刹那の快楽より、多年の安寧あんねいのほうが、八右衛門には好ましく映った。

(はて、さて、どうしたものか……)

 複雑に絡み合う八右衛門の心情の動きというものは、なかなかに解けそうもない……。だから、もどかしい。考えれば考えるほど、せつなくもなる。

 八右衛門には、胸中の悩みを打ち明ける友はいない。はてさて……と考えあぐねた末に、ぽっと火が灯るように頭裡とうりに浮かんだのは、寺田文右衛門もんえもん容貌かおだった。

 文右衛門は勘定奉行山崎家の用人ようにんにすぎない。すなわち直臣じきしんではなく、陪臣ばいしんである。すでに六十の坂を越えている。けれど若き頃は廻国修行で剣豪の名をほしいままにした一時期もあったというではないか。八右衛門は、その文右衛門に数度の剣の手合わせを願い、指導をうたときにも、嫌がることなく、応じてくれたはずである。その返礼を兼ね家に招き、素膳をきょうしたときにも、文右衛門は応じてくれた。そのおりの光景がふと浮かび上がってきたとき、八右衛門は、寺田文右衛門に相談してみようとおもいたった。あの老翁ならば、藩士ではないので、自分の仕事にもこの先支障をきたすことはないだろうといった打算もあった。

 それにしても……と、八右衛門は首をひねった。

(……寺田文右衛門という御仁は、いまだに不思議な気を放っている老翁だな。他家との交流も厚く広く……町人からも親しまれている)

 ……そこまで思いが巡ったとき、八右衛門の足は自然と谷崎家の役宅やしきに向かっていた。門前でその八右衛門を迎えたのは見慣れぬ顔であった。中肉中背でやや腹がせり出ていた。

 上等とはいえない羽織には綻びと縫い合わせの糸がほつれている。

様……いや大層失礼つかまつりました。八杉八右衛門さまでございますね」

 声質はやや太い。おどおどしている様子もなく、むしろ来訪を待ちのぞんでいて喜びの表情すらみられる。

「お出迎え恐れ入り申す。谷崎家の家士の方か、それとも寺田殿のお身内の方かな……」

「いえ滅相もございませぬ。拙者はいまだ浪々の身、どうかそのようなご丁寧なおことば遣いはご無用に願います」

「浪々の身と申されたか……?」

「はい。申し遅れました、拙者は山本孫兵衛と申します。就活の友、男神おがみ真之介と申す好漢が、ご息女、ちえ嬢の悩みのもとをざっくりとお聴きいたしました」

「な、なんと! ちえが……?」

「事はいたって複雑怪奇のようでございまするな。寺田様はご陪臣とは申せ、藩ご重臣のご家来でござにますゆえ、表立っては動きにくうございます。この件は拙者と男神おがみが、まず動きます。あ、ご安心くださいませ、寺田様は後方にて各家と打ち合わせ、陰謀を暴くために注力くださいます。茶室にて寺田様がお待ちでございます……」

「……さ、さようでござるか」

 喉奥を詰まらせつつ八右衛門は案内あないされるまま寺田文右衛門が待つ庭園の茶室に足を向けた。

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