選べない選びたくない
家には非番であるはずの父八右衛門の姿もなく、初も居ない。それを知って、ちえは気鬱をおぼえた。父と初の二人が申し合わせて、外出するなどこれまでなかったことだった。
まだ陽は落ちていない。
はたと気づいて引き返そうとしたが、そのとき、すれ違った町人の群れが、
「……おネヨ婆が掻き消えたぞ?」
「……巡業にいったのではないかえ」
「……それなら張り紙なり、前口上で伝えていたはずだ。やっぱり、婆は、お稲荷さまが化けていたのやもしれないぞ」
などと、口々に言い合っていたのが耳に入ってきた。どうやら、これまで陣取っていた稲荷社の境内からなんの前触れもなく姿をくらましたらしい。
(ええっ、ど、どういうこと……?)
急ぎ足で石段を駆け上がると、ちえはアッと息を呑んだ。昨夕までは厳然とそこにあったはずの掘立て小屋も
ちえは小屋跡に残っていた古くからあった
(
と、そこでちえの思念は立ち止まった。
これまで連日のように、
『お初さまが、ずっと居てくださいますように』
と、願ってきたその
それに。
初が新しい母上になってくれるようにとこれまで稲荷の神様に願い続けてきたことは、簡単に
父にも災いがもたらされず、かつ、初もずっと居続けてほしいという願いは、矛盾しているものなのだろうか。たとえそうであったとしても、神様ならなんとかいい答えの糸口を見い出してくれるにちがいないとも思った。そんなおのれの都合ばかりで両手を合わせてきたこれまでの行為が、突然、とてつもなく恥ずかしいものに思えてきて、ちえは
ふいに、背後に無気味な視線を感じた。
「ひゃあ」
振り返ると鳥居の上に人がいた。
振り返らず一目散に走った。
駆けた。
転びそうになるのを腕で草木を掴んで支えながら、走った。駆けながら、なぜ人が大勢いる方角に戻らなかったのかとちえは悔いた。
でもいまさら戻れない、引き返せない。
山の頂上へ続く
振り返ることもできないが、ガサガサ、ゴソガサと自分の背後から音が聴こえてくるのは、おヨネ婆が追ってきている
湿原に出た。
溜池代わりに農夫たちが使っている水源地だが、この日に限ってひとの気配がない。
行き止まりで、もう道はない。
「もう、およし」
おヨネ婆の声が、頭上から響いた。
「……そんなに怖がることはないさね。殺しゃしないさ。それに……八右衛門を仲間に引き入れるためには、遅かれ早かれ、おまえをかっさらうつもりだったからね」
ちえが振り返ると、高い木の枝から蔦を足をかけた婆が、逆さ吊りになったまま、顔を
ひょいと地に降り立ったおヨネ婆が、舌で唇を舐めながら言った。
「さあ、どっちを選ぶかね。お初が必要とあらば、このまま、婆とともに一緒にこの地を離れるのじゃ。ま、おまえの世話ぐらい、お初がしてくれようぞ」
「と、とうさまは? どうなるの……?」
「おう、八右衛門ならば、こちらが求めるものをそのつど寄越せば、いのちまではとらぬぞよ。それどころか、たんと
おそらくおヨネ婆は、長年、料亭の芸子に扮して藪坂藩内の政情や重臣の動向を探ってきたにちがいない。その役目を、これからは八右衛門にやらそうとしているらしかった。言い終わると再びおヨネ婆は蔦の上に飛び乗った。
そのとき。
鋭い
「こらぁ、ちえ坊に手を出すな!」
「あ!」
と、叫んだのは、ちえであったか、おヨネ婆であったか………。
「おおかみ!」
と、さらに叫んだちえは、その場に尻もちをついて転んだ。嬉しさのあまりか、それとも、なにやら婆の妙な術で金縛りにあっていたのであろうか。
「なに、狼じゃと?」
おヨネ婆がふたたびひょいと蔦から飛び舞い降りた。
「なんだ、流浪人か……狼とは似ても似つかぬの」
おヨネ婆の嘲笑いを受けても、真之介はたじろかなかった。
「
「ふん、なんだ、ただの
「おいおい、なんという言い草だ。そっちが、あることないことをちえ坊に囁いて、いじめてきたのだろ? あ、そうだったか、言い草も、草のうち……だったかな。婆さんや、どこの草……だ?」
「なにぃ」
「草っていうのは、代々その土地に根を生やして潜み続ける隠密を指すそうだな」
「……………」
おヨネ婆が黙ったまま真之介を鋭く睨んだ。けれど婆の表情には多分に
そう察するとおヨネ婆なりにこの場に登場した真之介の意図を探ろうとする余裕が生じたじたようであった。
「はて、いい齢をして浪人の
「はあ……? おふで……なんだ?」
御筆組……とは、ここ藪坂の
けれどおヨネ婆は、どうやら真之介を下級藩士の変装だと勘違いしたようである。
おそらくこの地に潜入してから、名だたる家の人間関係などをつぶさに我が目で確かめ、記憶してきたのであったろう。おヨネ婆が、真之介に見覚えがないのは当然のことで、けれどまさにこの瞬間にこの場に現れた真之介の存在というものは、おヨネ婆には看過できない重さがあった。
「おまえはどうしたいんじゃ。この婆を斬るか?」
「ふうむ、斬りたくとも、おれの腕じゃ到底無理のようだな」
あっさりとそんなことまで言い放った真之介の表情には笑みはない。なにも婆を
すると、ちえが走って近づいた岩の
「なんだ、板切れはそんなことのために持参してきおったか……ふん、なかなか悪知恵が働くの」
おヨネ婆の声にも感情はない。
「悪知恵? さっきから、おれのほうがさも人さらいかなにかのようにほざいてやがる」
「口も悪いの」
「それはお互いさまだ」
婆が言い、真之介が返す。と、真之介はちえの居る場から
「ほう、勝つ見込みはなくとも
おヨネ婆はすでに真之介の技量を見切っており、その余裕がさながら真之介とのことばのやりとりを楽しむ年長者の慈悲をおもわせた。
「あまり修行はしてこなかったが、おれにはひとつだけまなんだ技があるぞ」
「ふん、このさい、聴いてやろう」
「鞍馬古流」
「くらまだと……?」
「それに工夫したんだ……秘剣
「秘剣じゃと……?」
……やりとりの
と同時に
瞬時に刀身の切っ先は地についている。
秘剣朧舟……
朝の船出を見送る麗美人を、おのが手でつかまえ、待て待て……と名残りを惜しむ
船を
「……ほ……ほぅ」
婆の喉元から感嘆の息が洩れた。おヨネ婆の体躯がぼよよんとたわんだかのようにみえた。
たしかに婆はそのとき、おのが眼でおのが感得力で、真之介の秘剣が生み出した幻の麗美人の姿を
だから動けない、おヨネ婆は蔦に飛び移れない……ままであった。
だが……。
秘剣朧舟などと大層な名を
はたして舟出を見送られるのは、婆のほうであったか、それとも技を捻り出した真之介の側であったか……。
シャキーン
双方が繰り出した刃の鈍い音は、さらなる第三の刃に打ち消された。それはあたかも風に舞う渦のように突如として割り込んできた。
「や……!」
声を上げつつ三歩
第三の人物は……八杉八右衛門だった。が、真之介はその顔を知らない。
「
くぼみから飛び出してきたちえが八右衛門に抱きついた。
「おのれ、八右衛門よ、この婆めを斬れば、初とて生きてはおれぬぞよ!」
「ええい、申すな!」
応じたのは八右衛門である。
「……すでに、そのほうの正体、お見通しぞ! 追っ付け、
「な、なんと? このまま逃すと言いやるのか!」
婆は驚き、八右衛門をみた。かれの意図が読み切れなかったのであろう。
「……受けた恩は、なんとしても返さずばなるまい。あのおり、初の手当が遅ければ、わしの腕と脚は不具になっていたやもしれぬ。さあ、いまのうちに、
これほどの八右衛門の
あたりに初の姿はない。いや、近くで事の成り行きをじっと窺っているかもしれないと、ちえはおもった。
ふいに真之介がしゃがんで、ちえの
なぜかちえはポッと頬を染めた。
大きなため息が洩れ聞こえてきた。婆が吐いたのであろう、故意に音を響かせたのは、戦意が
そのとき、遠方から駆け寄ってくる群衆の中に真之介は山本孫兵衛の姿を認めた。先頭に立った孫兵衛のあとに続くのは武士たちではなく、職人や町人たちであった。
(なるほど……さすが
と、真之介は悟った。隠密騒動を
(けれど、それでいいのか、悪いのか……)
政治的なことは真之介にはなにもわからない。けれども山本孫兵衛がただの喰い詰め浪人でなかったことは、かれの次の一声で真之介にも伝わった。
「……すでに判明した五か所の拠点はすべておさえ、不審なる者どもは捕らえ、あるいは斬り捨てたぁ。おヨネ婆、おまえの息のかかった者はもはやおるまいぞぉ」
すると、蔦と小枝がざわざわと揺れた。
「弱きおおかみどもよ、また
さらにおヨネ婆はどこかの
「ちえぇ、
振り返り
かりにおのれ一人で婆と闘っていたならば、勝算はなかったからである。
婆が逃走したのは、現れた群衆と真之介の度胸を見抜いたからかもしれず、先の先が読めぬとあらば、
風が舞うがごとく去っていった婆の余韻はすでになく、蔦のからまる木々が
……初が戻って来るのか来ないのか、それは八右衛門にも判らない。気長に待ってやろう、とも思っていた。それに、他人からの複雑な視線のなかを
「
八右衛門が真之介に礼をのべた。
「いや、おれはなあんにも……」
「いや、男神どの、山本どのご両人は、それがしと娘にとっての救いの神様にほかならぬゆえ」
「や………」
真之介はなにも言わない。照れているのか、驚いていたのかは、ちえにもわからなかった。けれど父が言ったように、真之介こそが、稲荷社が遣わしてくれた神様の使者のようにおもえてきて、ふいに、ちえの
その様子をみていた八右衛門が、つぶやいた。
「ちえ……かりに、かりにだ、初が戻ってきたならば、なにも聴かず、たださず、そっとな、ただ笑って迎えてやるのだぞ」
そう言われたちえは、八右衛門が嬉しげに微笑むのをみて、稲荷社の神様への願い事は、一体どのように判定されたのだろう、とむしろそのことがちらりと頭裡をかすめた。
そうして、なにやら若々しくなっている父の横顔をちらりとみた。
そのとき。
大木の上で人影が
初……であった。
ひょいとなにかをこちらに投げつけてきた。
あっ、と叫ぶ間もなく、それは、のびはじめたちえの後ろ髪をくるりと束ねたその中にぷすんと突き刺さった。
あの瑪瑙細工のかんざし、であった。
まだ
初の気配を察したであろうはずの真之介は、なにも言わない。なにも発しない。
それがちえには嬉しかった。真之介の善意なのだと胸のなかで手を合わせた。
それに。
ちえは、このかんざしは初からの
そして、おそらく二度と会うことはないだろうと、そのことを半ばちえは確信した。
けれども。
このことは父には告げまい、言うまいとちえはおもった。ことさら
初が伝っていった蔦のつるが揺れている。
その揺れが
すると思ってもいなかったことが少女の口をひょいとついて出た。
「とうさま、初さまは、きっと戻ってきますとも」
そう言ってあげることが、いまの父には必要なのだと、ちえはそのことを勝手に信じようとした……。
これぐらいの嘘なら、きっと神様も許してくれるにちがいないと、ちえはほんの少し背伸びしたような大人びた
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