複雑すぎてもどかしい

 ……八杉八右衛門が家に不在の深更、きまってはちえの寝息を確かめてから、そっと戸外へ抜け出す。最初の頃は露ほども気づかなかっただったが、慣れてくるとのにおいやかすかな身の動きを察して、寝たふりを決め込むこともままあった。

 ある夜。

 は密かに準備しておいた領巾ひれを身体に巻きつけ、出て行った初の後を追った。

 ほのかに匂うような月灯りのなかを、どうやらは稲荷社の方角へ急いでいるようであった。

 それならさほど遠くはないし道筋は慣れている。息を潜めて少女は幾分安堵あんどしつつ、それでも静かにじわりじわりと追っていく。

 やはり。

 は稲荷社の鳥居の前まで来ると立ち止まった。

 草むらにかくれたは、

「ひゃあ」

と、おもわず声を立てそうになって、両の手で唇を押さえた。

 なんとは、鳥居の柱を腕で抱え込むと、そのままするするとのぼっていったのである……。

 あたかも夜の静寂しじまの中を徘徊する小動物のようにガサガサ、ひゅるると、いともたやすくいただきに達すると、そのまま腰をかけて休止した。すると、真逆の方角から、大木から鳥居へ絡みついた蔦を這ってくるがあった。その人影は、まごうことなく、おヨネ婆であったろう。

 鳥居の上のふたりは、なにやら、ぼそぼそとやりとりをし出したが、地に這いつくばるように身を縮めていたの耳には届かない……。

 ただ、二言三言、はっきりと少女に聴き取れた人の名があった。

 八右衛門……。

 鳥居の上のふたりは、どうやら父八右衛門のことを話しているらしかった。

 犬の遠吠えが闇をつんざいた。

 満月に近い明るい月が雲間くもまに隠れて、一瞬、漆黒の闇があたりを覆った。

 それが合図であったかのように、警戒を解いた鳥居の上の二人の声が大きくなった。

『……おまえにはできまいて。ひとたび、情が湧けば、ためらいが芽生えよう』

『……情などない。お役目大事でございますゆえ……』

『ふん、孤児みなしご同然だったおまえを、一人前ひとりまえに仕込み、育てあげたのは、この婆ぞよ!まさか、八右衛門とつるんで、裏切るつもりかよぉ』

『そ、そのようなことは決して……』

『ん? 断言できるのかえ? ここは稲荷社ぞ、神に誓って、八右衛門を手玉に取ると約するかえ?』

『………』

 互いが互いの意図をくじこうと精一杯の駆け引きをしていたのであったろうか。ちえの耳には、はっきりと、おヨネ婆との声の区別がついた。

『……返事がないとみゆる……ふん、ならば、いっそ、八右衛門を始末してやろうかいの』

 おヨネ婆の声であろう。

 父が殺されると驚いたが、震えを抑えきれずに思わず声をあげそうになった。

 その刹那せつな、ぐらっと鳥居が揺_れたようにには感じられた……。


        ○


 そんな一夜があったことを包み隠さずちえが真之介に語り終えたとき、なぜか少女はこれまで塞ぎがちだった気持ちが晴れてくるのを感じてきた。

 口を挟まず真之介が最後までじっと聞いてくれたからだった。そして、ただ一言、真之介が囁いたことばが、いつまでも耳朶じだの奥底にこびりつくように残った。

 しばし真之介は唸って唇を舐めた。黙考するさいのかれの癖である。

「そりゃ心配だろうな」

「………」

「でもな、ちえ坊、いまはなにもするな。それにこのことは誰にも言っちゃいけない。八右衛門どのにもな」

「え……?」

「これから先のことは、おれがなんとかしてやる。ほら、あのまごさんもいるぞ……いま、ちえ坊のために方々に支援と協力を求め交渉してくれている……だから、安心して、数日は何事もなかったようにふるまえばいい」

 真之介はの肩に掌をあずけ、なんどもうなづき続けた。少女にではなく、おのれに言い聞かせるしぐさであったろうか……。

 






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