複雑すぎてもどかしい
……八杉八右衛門が家に不在の深更、きまって初はちえの寝息を確かめてから、そっと戸外へ抜け出す。最初の頃は露ほども気づかなかったちえだったが、慣れてくると初のにおいや
ある夜。
ちえは密かに準備しておいた
ほのかに匂うような月灯りのなかを、どうやら初は稲荷社の方角へ急いでいるようであった。
それならさほど遠くはないし道筋は慣れている。息を潜めて少女は幾分
やはり。
初は稲荷社の鳥居の前まで来ると立ち止まった。
草むらに
「ひゃあ」
と、おもわず声を立てそうになって、両の手で唇を押さえた。
なんと初は、鳥居の柱を腕で抱え込むと、そのままするするとのぼっていったのである……。
あたかも夜の
鳥居の上のふたりは、なにやら、ぼそぼそとやりとりをし出したが、地に這いつくばるように身を縮めていたちえの耳には届かない……。
ただ、二言三言、はっきりと少女に聴き取れた人の名があった。
八右衛門……。
鳥居の上のふたりは、どうやら父八右衛門のことを話しているらしかった。
犬の遠吠えが闇をつんざいた。
満月に近い明るい月が
それが合図であったかのように、警戒を解いた鳥居の上の二人の声が大きくなった。
『……おまえにはできまいて。ひとたび、情が湧けば、ためらいが芽生えよう』
『……情などない。お役目大事でございますゆえ……』
『ふん、
『そ、そのようなことは決して……』
『ん? 断言できるのかえ? ここは稲荷社ぞ、神に誓って、八右衛門を手玉に取ると約するかえ?』
『………』
互いが互いの意図を
『……返事がないとみゆる……ふん、ならば、いっそ、八右衛門を始末してやろうかいの』
おヨネ婆の声であろう。
父が殺されると驚いたちえが、震えを抑えきれずに思わず声をあげそうになった。
その
○
そんな一夜があったことを包み隠さずちえが真之介に語り終えたとき、なぜか少女はこれまで塞ぎがちだった気持ちが晴れてくるのを感じてきた。
口を挟まず真之介が最後までじっと聞いてくれたからだった。そして、ただ一言、真之介が囁いたことばが、いつまでもちえの
しばし真之介は唸って唇を舐めた。黙考するさいのかれの癖である。
「そりゃ心配だろうな」
「………」
「でもな、ちえ坊、いまはなにもするな。それにこのことは誰にも言っちゃいけない。八右衛門どのにもな」
「え……?」
「これから先のことは、おれがなんとかしてやる。ほら、あの
真之介はちえの肩に掌をあずけ、なんどもうなづき続けた。少女にではなく、おのれに言い聞かせるしぐさであったろうか……。
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