神奈川編:第6話
第六話
あたしは咄嗟に横へと転がった。
直前までいた場所に、巨大なムカデが勢いよく飛び掛かってくる。床板を砕くほどの衝撃音が響き、ほんの少しでも反応が遅れていたら肉片になっていたのは間違いない。
最悪なことに、あの化け物は出入り口の正面を塞ぐ位置にいる。正面突破は不可能。ならば――別の出口を使うしかない。頭の中に必死で店内の構造を思い返す。確か、あの入り口から右へ進んだ先、木材コーナーの辺りにもうひとつ出入り口があったはずだ。
ムカデはすぐに体勢を立て直し、カサカサと甲殻を擦る音を響かせながらこちらに向かってくる。あたしは近くの商品棚の陰へ飛び込み、息を殺した。
刹那、すぐ横をムカデの巨体が突風を巻き起こしながら通り抜ける。そのまま正面の棚に激突すると、頑丈そうだったスチール棚が無残に砕け散った。
「嚙まれたらどころか、ぶつかられただけでもアウトっすね……」
震えを押し殺しながら小声でつぶやく。幸い今は見失ってくれているが、この棚の陰から少しでも身を出せばすぐに感知されるだろう。あんな突進を何度もかわす自信なんて、あたしにはない。
そこで、ふと思い出した。リュックを漁り、先ほど手に入れたスリングショットを取り出す。一か八か、試すしかない。近くに落ちていたガラス片を拾い、ゴムを目いっぱい引き絞った。
狙いは店の最奥。ガラス片が空を切り、暗闇の向こうへ飛んでいく。
やや遅れて「パリンッ」と乾いた音が響いた瞬間、ムカデが反応する。巨体を震わせると、音の方向へと猛スピードで突進していった。
「今のうちっすね……!」
鼓動を抑えながら木材コーナーの出入り口へ駆け込み、外へ飛び出す。
停めておいた自転車へ飛び乗ると、そのままペダルを踏み込んだ。
「あんな化け物までいるとか聞いてないっすよ……」
荒い息を整えながら、呟く声が夜の空気に消えていった。
それから二時間ほど自転車を走らせると、空が赤から群青へと移ろいはじめた。日が暮れる前に今夜の寝床を確保しなければならない。あたしは周囲を見渡し、比較的損傷の少ない建物を探す。
しばらく進んだ先で、一軒の民家が目に留まった。庭は雑草に覆われていたが、外観そのものは崩れておらず、窓ガラスも割れていない。生活感が残ったまま時間が止まっているように見える。
玄関の扉を引くと、鍵は掛かっていなかった。念のためドアベルを押してみるが、反応はなく、乾いた静寂だけが広がる。
「ごめんくださーい」
小声で呼びかけながら扉を開けて中へ足を踏み入れる。
懐中電灯を点けて探索を始めると、そこには荒らされた形跡もなく、誰かが日常のまま忽然と姿を消したような生活の痕跡があった。食器は棚に整然と並び、家具もほこりを被っているだけだ。スライムや芋虫の姿もない。奇跡的に、無事な家を見つけたようだ。
ふと、キッチンの窓から裏庭が目に入る。そこには古びた石組みと鉄製の手押しポンプがあった。
「……井戸っすかね?」
勝手口から庭へ出てみる。近づいて覗き込むと、底のほうで光が反射していた。どうやら水は枯れていないらしい。あたしは胸をなで下ろす。
家に戻り、水を汲める容器を探すと、玄関の隅にバケツが置いてあった。早速抱えて井戸へ行き、ポンプを上下に動かす。しばらくするとゴボゴボと音を立てて透明な水があふれ出し、バケツに満ちていく。
汲んだ水をキッチンへ持ち込み、ガスコンロに目をやる。電池を取り替えると、まだ火が点いた。奇跡だ。棚にあったやかんへ水を入れ、コンロの上に置く。シュウシュウと音を立てて湯気が上がり始めると、心の底から安堵が込み上げてきた。
その間にも何度か井戸へ足を運び、バケツで水を運んでは浴室へと注いでいく。沸かした湯を少しずつ足していけば、ちょうど良い温度のお風呂になるはずだ。
やがて浴槽に十分な水がたまり、あたしは湯気の立つそれを見つめて思わず笑みをこぼした。
「……いつぶりっすかね、こういうの」
病院で目を覚ましてから、まともに風呂に入ってなかった。いつから眠っていたのかも分からない。けれど、この一瞬だけは、確かに人間らしい時間を取り戻したような気がした。
服を脱ぎ、温めた湯へと身を沈める。
「はぁ~……極楽っすね~」
じんわりと全身に熱が行き渡り、数日分の疲れがふわりと溶けていくようだ。
浴室に置かれていた石鹸で身体を丁寧に洗い流す。さらに棚には未開封のシャンプーとトリートメントまで揃っていたので、ありがたく使わせてもらった。髪を洗い終えると、肌も髪もすっかり軽くなった気がする。タオルで水気を拭き取り、下着を身に着けると、次にすることは決まっていた。
浴槽に残った湯を使い、制服を洗濯するのだ。汚れをしっかり落としたそれを屋内に干し、その間は家のクローゼットから見つけた服を借りて着ることにした。大きめの男物なので袖も裾も余るが、贅沢は言えない。
続いて鍋に水を張り、ガスコンロでお湯を沸かす。井戸水のおかげで、貴重なペットボトルの水を節約できるのがありがたい。湯が沸いたら、リュックからカップ麺を取り出す。今日はカレー味だ。タイマーなんてないから、頭の中で「いーち、にーい、さーん……」と数を数える。三分経ったところで蓋を開け、熱気と共にカレーの香りが立ちのぼった。
「やっぱり暖かい食べ物食べると落ち着くっすね」
ひとりごちて麺をすすり、スープまで飲み干す。身体の芯から温かさが満ち、心まで安らいでいくのを感じる。
食べ終えたカップをシンクに置き、寝室へと向かった。ベッドのシーツを払い、溜まった埃を落とす。そこに身を横たえると、薄暗い天井を見上げながらつぶやいた。
「明日はどこまで行けるっすかね……」
次に進む道のことを考えながら、まぶたが重くなっていく。静かな夜に包まれ、気が付けば深い眠りに落ちていた。
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