第30話 過去③

「見たことがないものが見たいね」

 れいがそう言ったのがいつのことだったか、正確には覚えていない。あるいは、具体的にいつどこでということはあまり重要ではないのかもしれない。見たことがないものが見たい。なんでもいいから面白いものが見たい。それは玲の口癖のようなものだった。

「見たことがないものって?」

 俺がそう訊いたのがいつのことだったのかもよく覚えていない。それは一回限りのことではなく、彼女との会話の中で何度も口した質問だったように思う。しかし、そのたびに玲は曖昧に笑うばかりで、はっきりとした答えが返ってきたことはなかった。


 圦下いりかれい。俺の記憶の中で、彼女はいつも映画を見ている。

 家が隣同士だった俺たちは、子供の頃からお互いの家を行ったり来たりしていた。だが、家の中で遊ぶときは、部屋で一緒に映画を見ることがほとんどだった。映画を見るのはもっぱら玲の部屋だった。

 玲の家には新旧の映画のソフトが大量にあって、最近の作品から過去の名作、そしてネットで配信されていないようなマニア向けのタイトルまで、ビデオやDVDがラックにびっしりと並んでいた。中にはどういう経路で入手したのか、無名のインディーズ作品なんかもいくらか紛れていた。それらの多くは玲の両親のコレクションらしかったが、玲自身の所有物もそこそこの数を占めていた。小さな子供が映画のソフトを何十本もコレクションしているのも不思議な気がしたが、玲の家ではそれが当たり前の環境であり、玲にとってそれは生来当たり前のことだった。俺が玲の家に行くと、彼女はたいていひとりで部屋に引きこもって映画を見ているのだった。


 かと言って、圦下玲が内向的で人嫌いな人間だったかというとそうではなかった。学校には少なからず友人がいたし、趣味を理由にクラスでハブられたりいじめられたりといった扱いを受けることもほとんどなかった。俺の記憶している限り、彼女の交友関係はおおむね良好のようだった。家では存分に趣味を満喫し学校では明るく社交的に立ち振る舞う。子供らしからぬ器用な生き方を苦と思わず使い分ける優等生。それが、俺が知る圦下玲という少女だった。


 対人面で孤立しがちだったのはむしろ俺のほうで、クラスメイトの集まりや地域のイベントに俺を駆り出すのはいつも玲だった。幼少期の俺は何かと言うと彼女に連れ回されてばかりだったし、普段の予定を玲に完全に把握されていた俺は、毎日のように彼女の映画鑑賞に付き合わされた。どうせ暇だろうと言われても文句の一つも言うことができなかった。その関係は年齢を重ねても継続し、兄も含めて三人で長時間ぶっ続けで映画を何本も見たり、気分転換にとあちこち出歩いたりしたものだった。


 しかし幼少の頃のことをあらためて細かに述懐しようとすると、やはりあまりよく覚えていないという感想が先立つ。

 なぜなら、あの頃は毎日が同じような日々の繰り返しだったからだ。

 思い出すのは、いつも玲の横顔だ。

 つぶらな瞳は一心に画面へと向けられ、整った鼻筋は映画の中の情報を受信するための特殊なアンテナのようだった。

 薄暗い玲の部屋。

 部屋の真ん中で、玲と俺と、そして兄の光解が身を寄せ合うようにしてテレビ画面を見つめている。目まぐるしく明滅していたビジョンがやがて暗転し、エンドロールが流れ始める。

「ねえ、次は何見る?」

 玲が俺に問いかける。彼女と出会ってから何度となく聞いた言葉だ。期待の眼差しを向けてくる玲。液晶の淡い光が彼女の顔を青白く照らしている。しかし俺は、何でもいいよとか、ちょっと疲れたなとか、どうでもいい返事をしてしまう。気だるげな俺を横目に、玲と光解がこれにしよう、いや今度は全然違う感じのにしようなどと言って盛り上がっている。


 思い返してみるに、光解が映画に興味を持ったのは明らかに玲の影響だった。玲の存在がなければ、奴が大学で映画サークルに入ることもなかっただろう。それくらいに、玲の部屋で映画を見ることは、俺たち兄弟の生活にすっかり組み込まれた日常の一部になっていた。

 俺のほうはと言うと、そこまで映画趣味に没頭することもなく、映画を見ると言ってもただ漫然と画面を眺めていただけだった。幼馴染と兄が何をそんなに楽しそうに盛り上がっているのか、俺は最後までよくわからないままだった。あの頃の俺は二人の会話にろくに入っていけなかったが、時間が経ったいまなら多少は気の利いたことも言えるだろうか——いや、あまり変わらないかもしれない。俺の映画への興味はいまも昔もさほど変わっていない。


 では、どうして俺は、大して興味もない映画を一緒になって見続けていたのだろうか。どうして俺は、あの部屋で、彼女の隣に居続けたのだろうか。あの頃の俺は何もわかっていなかった。

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