天蓋の街 1


 光の膜をくぐった瞬間、空気が変わった。

 熱も灰もない。肺の奥に、冷たい水を一杯流し込まれたような清澄さが満ちる。アリスは思わず深く息を吸った。匂いがある。土と水、そして柑橘に似た微かな香り。外では忘れていた種類の匂いだ。


「こちらへ」

 銀灰色の制服を着た若い連絡官が歩み寄る。胸章には AMEL VEIN の文字。背後には透明な廊(コリドー)が光を帯びて伸び、床面の淡い矢印が流れるように点灯していた。


 最初の区画は除染とスキャン。

 霧状の微細な粒子が肌と布地を撫で、装備の表面で静かに光っては消える。柱に埋め込まれたセンサーが短く鳴り、パネルに緑の輪が広がった。

「熱負荷と微粒子の蓄積が顕著です。医療班を呼びます」

 アメルの言葉と同時に、白衣の二人が駆け寄り、ジョリンを軽量担架に移す。そのまま医療棟へと急いで運び去った。


「治療のあいだ、皆さんは短く案内を。外交局ではローワンが待っています」


 透明廊を抜けた先、視界を覆うのは巨大な天蓋だった。

 骨組みと一体化した外壁の内側に、幾層もの透光パネルが重なっている。直射のように鋭い白ではなく、時間に合わせて色温度を変える柔らかな光。細い開口から取り込んだ外光と風を、都市全体に配っているのだとアメルは説明する。

「上層のラメラ・パネルが日射と外気を調整します。風は循環路で温湿度を最適化。気候は作物の生育と人の生活リズムに合わせています」


 アリスは見上げた。

 光は人工物だが、目が痛まない。ノクティスの無機質な白光とは違う。ここには“時間”の色がある。午後のやわらかさが石畳に落ち、樹冠の影を揺らす。

 中央水路の水面がきらめき、低い噴水がゆっくり脈打つ。外では危険物だった水が、ここでは街の呼吸になっていた。


「こちらが栽培区画の一つです」

 アメルが示したガラス越しの壁は、縦に積層された緑で覆われている。厚い葉が光を抱き込み、根は霧状の養液に浸っていた。棚の間を搬送ユニットが静かに滑り、熟した果実だけを吸着して運び去る。

「旧地球の作物から選抜した系統です。暑熱と少放射に適応しています。味の差は……慣れるまでは驚かれるかもしれません」


 回廊を進むたび、靴音が柔らかく響く。

 薄布をまとった市民が談笑しながら行き交い、子どもが水盤の縁を走る。ノクティスでは全て国家が育てる子どもが、ここでは大人と手をつなぎ、笑っていた。警備ドローンが上空を音もなく巡回する。視線は向けられるが、露骨ではない。見られることに慣れた都市の距離感だ。


「居住リングは三層。下層が生産、中層が公共、上層が居住です」

 遠くの回廊が緩やかに螺旋を描き、上層へ続いているのが見える。

「医療は上層東ブロック。あなた方の仲間はそちらへ。血中酸素は安定化させています」


 セリンが問う。「滞在プロトコルは?」

「武装は局内ロッカーで保管、通信は監査経由、採取物は登録後に分析。移動はガイド同伴、整備層など危険区域は立入禁止です」

 声は柔らかいが、芯は硬い。ここもまた、別の形の規律で動いている。


 広場に出る。

 楕円の池を囲む木々の葉が銀の裏を返し、帆のような布が光を散らす。石の縁に触れると、乾いていてひんやりとしていた。水の気配は豊かだが、こぼれることなく都市に循環しているのが分かる。


「ここは“冷却庭”。午後の熱を逃がし、夜は水温で空気を冷やして回廊へ戻します」

 アメルは笑った。「観光用の呼び名もありますが、機能名のほうが覚えやすい」


 エランが水面を覗き込み、呟く。「無駄がない……」

 その視線の先、白いアーチの向こうで人影が待っていた。


「外交局はあちら。ローワンが面談を設定しています」

 アメルが歩調を落とす。「その前に水分と塩分を。歩行データでは熱疲労ぎりぎりです」


 渡されたのは冷たい水と薄い塩の板。

 水は甘みを含み、塩は舌で砕けて体に沁みた。胸の奥のざわめきが静まっていく。


 天蓋がわずかに暗くなり、風が強まった。

「夕刻モードです。あと一時間で夜になります」

 夜。外にはなかった循環が、この街にはある。


 アーチの陰で誰かが振り返った。

 灰の世界では見なかった色の瞳。整えられた装い。

 名を呼ばれる前に分かる――ここで次の扉が開くのだと。

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