緑の鑑 限界
進むべきか、戻るべきか。
その判断を下すために、セリンはわずかに視線を上げた。頭上の枝葉の向こう、白い靄は濃度を増し、森の奥からは低い唸り声のような音が断続的に響いている。
空気は熱く、まとわりつく湿気が呼吸を重くする。汗が肌に張りつき、フィルター越しでも喉が渇いた。
負傷したカーは、地面に座り込んだまま動けずにいた。
岩に押し潰された足は固定されたものの、痛みと出血で体力を削られ、口元は蒼白を通り越して灰色に近い。
ジョリンが酸素量とバイタルを確認しながら首を振る。
「これ以上の移動は、危険です」
その声は淡々としているが、わずかに震えていた。
「置いていけってことか」マーレンが吐き捨てるように言った。
誰も返事をしない。
置いていけば確実に死ぬ。連れて行けば、全員の速度が落ち、森に呑まれる危険が増す。
アリスは、その沈黙の中で足元の土を見つめた。
湿った地面に、奇妙な跡が混じっている。
細長い指のような痕跡が、獣の四足歩行の足跡と重なり合い、奥へと続いていた。
それは、さっき見た黒い影のものかもしれない。だが、形はどこか人間の手にも似ている。
――ここにいるのは、ただの獣じゃない。
頭上で何かが揺れた。
視線を上げた瞬間、大きな影が枝葉の隙間を横切り、奥へ消えていく。
同時に、遠くで崩落音が響いた。乾いた木の裂ける音と、岩が転がる轟音。
道を、完全に塞がれた。
「……進むしかないな」セリンの声が低く響く。
戻れば胞子の靄を逆行することになる。進めば未知の危険が待つ。どちらも安全ではない。
だが、選択の余地はなかった。
カーは担架に乗せられ、エランとジョリンが肩を支える。
その瞬間、カーが薄く目を開け、何かを言おうと唇を動かした。
だが、声にはならない。喉が震えただけで、言葉は靄に飲まれた。
数秒後、彼の瞼はゆっくりと閉じた。
ジョリンが呼吸を確かめ、首を横に振る。
沈黙が落ちたまま、誰も泣き声も上げずに立ち上がる。
「埋葬できる場所を探そう」
セリンの声が低く響いた。
森の奥から、またあの低い唸りが響く。
それは追い払うようにも、導くようにも聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます