緑の鑑 囁き
ざわめきが、止んだ。
まるで何かが一斉に息を潜めたかのように、森は再び不気味な静寂に沈む。
次の瞬間、アリスは鼻腔を刺す異様な匂いに気づいた。金属のような、乾いた血のような匂い。
フィルター越しにも分かるほど濃いそれは、湿気と混じり、肺に重く沈んでくる。
「……酸素濃度、下がってる」
ジョリンの声が低く響く。計器の数値がわずかに赤に傾き始めていた。
森の奥から、白い靄が流れ込んできている。胞子だ。
微細な粒子が光を反射し、視界の端でかすかに煌めく。吸い込めば、肺胞を覆い、呼吸を阻害する――外の世界で報告されていた危険のひとつだ。
セリンが短く命令を飛ばす。「フィルター、全開にしろ。通過速度を上げる」
全員が応答し、足早に進み始める。
そのときだった。
頭上で、乾いた破裂音のような音が響く。
見上げると、太い枝ごと岩混じりの瓦礫が落下してきた。反射的に身を伏せたアリスの横で、負傷していたカーが悲鳴を上げて倒れ込む。
右足を大きな岩に押し潰され、膝から下があり得ない角度に曲がっていた。
「動くな!」ジョリンが駆け寄る。
その頭上を、何かが枝から枝へと素早く駆け抜けていった。
木の幹の間を縫うように走る黒い影。肩幅は人間に近いが、四肢の動きは獣のそれ。
影は彼らを直接襲うことなく、さらに先の方で別の枝や岩を崩し、道を塞ぐように仕向けていた。
名前も知らない、見たこともない生き物。
先ほど木陰で見た複眼と同じ光が、一瞬だけ枝葉の隙間に浮かび、すぐ消えた。
まるで、この先に何かがあることを知らせたくないかのように。
あるいは――別の理由で、彼らをここに留めようとしているのか。
胞子の靄は濃くなり、カーの呼吸は浅く速くなっていく。
酸素供給を上げても、彼の顔色は土のようにくすんでいた。
「まだ行けるか?」セリンが問いかける。
カーは唇を噛み、無言でうなずいた。だが、その瞳は焦点を結んでいなかった。
森の奥から、再び咆哮が響く。
それは警告のようにも、呼び声のようにも聞こえた。
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