出発の一歩

 ノクティスの朝は、いつもと変わらなかった。

 淡い白色灯が天井を均一に照らし、空調の低い唸りが区画全体を包み込む。配給所の前には、整然とした列が伸びている。


 だが、その均一な風景の中で、アリスの胸だけが静かにざわめいていた。

 栄養食の立方体を口に運ぶが、味はやけに薄く感じられる。喉の奥に引っかかる感覚が、飲み込むたびに重くなっていった。


 食後、装備支給所へ向かう。

 扉をくぐった瞬間、金属と油の混じった匂いが鼻を刺した。支給台の上には耐候服と呼吸装置、簡易武装が整然と並べられている。

 係員が無表情にアリスの名前と生年月日コードを確認し、端末に記録する。指先が冷えた金属を掴み、布地の硬さと重さが掌にずしりと伝わった。


 装備を抱えたまま、集合場所へ向かう。

 広いホールには、外交班、技術班、護衛の小隊がすでに集まっていた。全員が同じ方向を向き、姿勢を崩さない。言葉を交わす者はいない。

 視線の先、列の端にエランの姿があった。目が合うことはなく、ただ存在だけを遠くに感じる。


 やがて、指揮官が静かに前へ進み出た。

 「これより、外交任務を開始する」

 低い声がホールの空気を震わせる。外交官はセリンとアリス、技術官にエランとカー、警備にマーレン、医術官はジョリンだ、と順に名前を呼ばれる。その後、任務概要、出発ルート、想定される外の環境。どの言葉も簡潔で、感情の起伏はない。ただひとつ、「外の状況は、我々の想定以上に不安定である可能性がある」という一文だけが、曖昧な影を落とした。

 誰もその影に触れようとはせず、再び静寂が満ちる。


 指揮官の合図とともに、隊列はノクティス外へ続く通路を進み始めた。

 奥にそびえる巨大な気密扉が、低い唸りを上げて開く準備を始める。足元の床がわずかに震え、微細な振動が脚から背骨へと伝わる。

 Arisは一瞬だけ振り返った。そこには、灰色の街並みが広がっていた。規則正しい壁と窓、無表情な照明——生まれてからずっと見てきた光景。


 警告灯が点滅し、扉がゆっくりと開いていく。

 外気が流れ込み、冷たさと共に、訓練では感じなかった匂いが鼻腔を満たした。金属でも、湿気でもない、何か別の、未知の気配。

 その瞬間、胸の奥で小さな音が鳴った。音の正体はわからない。ただ、それが自分の中のどこかを確かに揺らしたことだけは、はっきりと感じられた。


 ——一歩、踏み出す。

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