灰の風

 足を一歩踏み出した瞬間、空気が肌にまとわりついた。

 冷たさではない。むしろ、熱だ。防護服越しにもわかる、重く淀んだ熱気が全身を包み込む。喉の奥が即座に渇き、呼吸が浅くなる。


 ——これが、外。


 訓練場で感じた外気循環シミュレーターの乾燥した風は、今思えばただの模倣だった。本物の外は、もっと重く、もっと肌を刺す。熱を含んだ灰混じりの風が、呼吸のたびに肺を圧迫してくる。


 マスク越しでも匂いははっきりとわかった。焦げた金属、古い油、そして何かが長く腐敗したような甘さ。息を吸うだけで体温が上がっていく錯覚に陥る。


 視界は広がっているのに、遠くまで澄んではいない。

 灰色と褐色が入り混じった空が低く垂れ込み、太陽は白く濁った輪郭だけを覗かせていた。直射の光は弱々しいが、空気そのものが熱を孕んでいるため、影に入っても涼しさはない。


 地面はひび割れ、細かい砂と白く干上がった塩の層がまだらに広がっている。足を下ろすたびに粉じんが舞い上がり、防護マスクのフィルターがじりじりと詰まっていく。遠方には、金属が剥き出しになった塔の残骸が傾き、その根元に飲み込まれるように黒い泥沼が口を開けていた。


 耳に届くのは、風のうねる音と、自分の呼吸音だけ。

 時折、遠くで何かが崩れる鈍い音が響く。その音が何なのか、確かめようとは誰もしない。


 歩き出すと、足取りはすぐに鈍くなった。

 重装備のせいだけではない。空気が重く、肺が酸素を拒んでいるようだ。背中にまとわりつく汗は逃げ場を失い、防護服の内側で溜まっていく。


 「——南西、二キロ。補給拠点跡地だ」

 先頭のマーレンが、地図を確認しながら短く告げる。


 ノクティスで渡された地図と、目の前の光景は似ても似つかなかった。

 本来なら廃墟の合間を真っ直ぐ進めるはずが、崩落や地割れが進んで道を塞いでいる。何度も迂回を強いられ、そのたびに距離が伸びる。地図の情報は、少なくとも数年は更新されていないとしか思えなかった。


 灰混じりの風が強くなった。視界の端で、細かな粒子が踊り、服の隙間を探すように押し寄せてくる。マスクのフィルターに灰が貼りつき、呼吸音がさらに荒くなった。


 途中、地面の窪みに溜まった水のようなものを見つけた。

 透明ではなく、茶色がかった液体が濁って揺れている。表面には金属片と砂が浮かび、風が吹くたび波紋が広がる。それを見た瞬間、ノクティスの再生水の味が急に思い出され、喉の渇きが痛みに変わった。


 「急げ、長く立ち止まるな」

 短い指示が背後から飛ぶ。声は硬く、感情を混ぜる余地はない。


 遠くの廃墟を背景に、補給拠点跡地がようやく見えた。

 骨組みだけが残った建物の影が、地面に薄く伸びている。近づいても温度は下がらず、影の中に入っても熱気は肌を離れない。まるでこの世界そのものが、熱という膜で覆われているようだった。


 これが、任務の始まり。

 そして、ノクティスで知っていた「外」とはまったく違う現実だった。

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