壁の内側

任務に選ばれても、ノクティスの日常は変わらない。

 配給時間は分単位で決まり、全員が決められた経路を歩き、決められた席に座る。朝食は温度も味も均一な栄養食。咀嚼音が室内に均等に散らばり、誰の声も混じらない。


 業務は淡々と進む。机上の書類を整理し、決裁印を押し、必要な記録を端末に入力する。隣席の同僚は、いつもと同じ速度で指を動かしていた。ただ、その視線が一瞬だけアリスに流れたような気がした。気づかなかったふりをする。


 午後、端末に短い指令が届いた。「訓練区画へ移動せよ」。

 ノクティスの市民の多くは訓練区画に入ったことがない。扉をくぐると、温度が下がり、空気がわずかに乾いている。壁面は金属の板で覆われ、遠くから低い機械音が響く。


 呼吸法の訓練から始まった。吸気を数えてゆっくりと保ち、限界ぎりぎりまで吐き切る。次に低酸素室に移され、短距離走と同じ速度で走らされる。

 息が焼けるように熱く、肺の奥で空気が薄くなる感覚が広がる。係官は何も言わない。ただ、脈拍計と酸素濃度計を確認している。


 次は温度差の訓練。狭い室内で急速に温度を上げ、数分後には冷気が吹きつける。汗が乾くより早く体温が奪われ、指先の感覚が薄れていく。

 「外は、これよりも変化が早い」——係官が一度だけ口にした。声は感情を帯びず、事実だけが置かれたようだった。


 さらに、砂塵と風圧のシミュレーション。視界は灰色にかすみ、足を前に出すのに全身の力を使う。

 (こんな環境が、本当に外にはあるのか)

 胸の奥で疑問が揺れる。だが、否定も驚きも表には出せない。ただ呼吸を整え、次の指令を待つ。


 訓練が終わったとき、足元は鉛のように重かった。汗は冷えて服に貼りつき、体温はまだ安定しない。

 廊下に出ると、壁際の端末に次回の予定が表示されていた。**「技術者班との合同訓練」**という文字が目に留まる。


 またエランに会えるのだという期待が湧く。ただ、ノクティスで育ったアリスにはこの感情が期待と言うことと認識できなかった。

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