捨てられた光

 朝の指令は、特別なものではなかった。

 対外情報科の準備業務として、地下第6層の旧設備保守エリアへ資料を届けるように、とだけ。

 その場所には、今後外交任務に同行する予定の技術者がいるらしい。名前はエラン。顔写真は添付されていなかった。


 記録上の地図には、通路の一部が“廃区画”として塗り潰されていた。だが、エランの現在地はそのすぐ隣だ。立ち入り制限の解除コードも一緒に支給されていた。


 不思議には思ったが、業務中に感情を挟むべきではない。

 アリスは無言で移動を開始した。


 地下第6層は、他の層と違ってほんのりと温かい空気が残っていた。

 機械の稼働音も少なく、照明の光はわずかにオレンジを帯びている。

 いつもより静かだ。足音がやけに響く。


 目的地に着くと、長い髪を束ねた技術者が、錆びた配管の点検をしていた。

 振り返った彼女──エランは、無言のアリスを一目見て言った。


 「……資料、ありがとう。こっち、初めて?」


 アリスはうなずいた。答えは必要最低限でいい。だが、彼女の視線はその奥にある古い鉄扉に吸い寄せられていた。

 色褪せた警告表示。“立入禁止”。だが鍵は壊れているようだ。


 「気になる?」


 その問いかけに、アリスはぎくりとした。

 けれどエランは、表情を変えずに言った。


 「……ついておいで」


 そうして、錆のきしむ扉を押し開けた。


 中は、想像よりずっと広かった。

 高い天井と、むき出しのパイプ。壁際には水耕栽培の設備と思しき装置が朽ちて並んでいた。タンクにはもう水はない。パネルは割れ、照明も点いていない。


 「初期の農業区画だったらしい。地下に来たばかりの頃、地上を完全に捨てきれなかった人たちがいたんだって」


 エランは淡々と語る。


 「太陽の光も、土も、空も、そう簡単には忘れられなかったんだろうね」


 奥へ進むと、見上げるほどの強化ガラスが天井を覆っていた。

 今はその上に何重もの人工層が積み重なっていて、光は届かない。だが、かつては──


 「ここで星を眺めてた部屋が、隣にある」


 エランが指差した部屋には、投影装置らしきものが置かれていた。今は動かない。

 壁際のベンチには、誰かが座った痕跡のような沈み跡が残っている。


 その隅、ひび割れた壁の裂け目から、水分とわずかな養分を吸って生き延びた苔が、かすかに緑を灯していた。


 他のものはすべて死んでいた。

 けれど、それだけが。


 「……なんで、残したんだろう」

 思わず、アリスがつぶやいた。


 エランは少しだけ笑った。

 「捨てられなかったんじゃないかな。希望とか、記憶とか、そういうの」


 それは、感情だった。

 言葉にされなければ、残らないもの。だが、確かにここにあったもの。


 アリスは、苔の緑から目を離せなかった。

 この国は、感情を不要とし、地上を切り離し、過去を封じて生きてきた。

 でも、捨てきれなかったものが、確かにある。

 その残響が、今の自分に届いている気がした。

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