感情は不要

ノクティスには、感情に関する明確なルールが存在する。

 感情表現は、他者に不要な波紋を与える。意図せず相手を動揺させ、判断を狂わせ、社会全体の効率を損なう恐れがある。

 だから「持たないこと」が、最良の在り方とされてきた。


 教育施設でも、職場でも、家庭でも、すべての人間がそれを理解していた。

 理解するまで矯正されるのが、この国だった。


 ──けれど、それでも。


 アリスは時折、思いがけず“何か”を感じてしまうことがある。

 それは決して大きな波ではない。波打ち際に指を差し込んだような、ほんのかすかな温度の揺らぎ。


 誰かの目元が揺れたとき。

 誰かが、声をかけたそうにして、それを飲み込んだ瞬間。

 食事の配給を静かに受け取る子どもの、どこか疲れた背中。


 言葉にはならない。

 だけど、それは確かに「気配」として、胸に残る。


 彼女は、そうした一つ一つを打ち消すために、自分を律してきた。

 深呼吸をする。何かを感じた瞬間、無表情を整える。目を伏せ、言葉を出さない。

 それができる自分は「正しい」。そうでなければ、この国では生きていけない。


 ──では、その「できている自分」が本当の自分なのか?


 ノア──隣室の彼女の表情が、数日前からほんの少し変わっていた。

 何かを我慢している。けれど、それを表に出すことはしない。

 アリスもまた、何も聞かない。聞いてはいけない。助けてもいけない。

 それは、感情から生まれる“衝動”でしかないから。


 「感情は不要」──

 この言葉を、彼女は何度、繰り返し聞いてきただろう。

 心の中で唱えることさえ、すでに習慣になっていた。


 けれど、その言葉に頼らなければならない自分こそが、

 もう、すでに「何か」を感じ始めているということなのではないか。


 彼女は夜、眠れずに天井を見上げていた。

 その天井のさらに上に、何層もの空間があり、人工の太陽があり、そして──地上がある。

 彼女はまだ、その“本物の空”を見たことがない。


 それでも。

 まだ誰のものにもなっていない感情が、胸の奥で形を作り始めている。

 言葉にならない衝動が、次に動くべき方向を探している。


 ──わたしは、本当に“持っていない”のだろうか。

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