許される思考
情報端末に表示される通知が、朝のルーチンの一区切りを告げた。
今日の予定に大きな変化はない。施設点検と、補助的な分析業務。どれも手順通りに進めれば問題は起きないものばかりだった。
端末の隅に、小さなトピックが追加されていた。
《学習コンテンツ更新:記録的他国家資料(分類B)》
Arisの所属する対外情報科に限って、特定の国家資料が月に一度だけ閲覧可能になる。といっても、一般向けに“安全”と判断された表層的なデータのみだ。
彼女は、決められた閲覧室へと足を運んだ。
入室と同時にドアが無音で閉まり、外界との通信が自動で遮断される。視線認証の後、卓上に映像が浮かび上がる。
その日は、ソリヴァールに関する記録だった。
屋根の下で暮らす国家。明るい人工空と、自由な文化。国民の会話は、互いの感情を分かち合うことに重点が置かれていた。
「感情は、社会に調和をもたらす」
そう発言するソリヴァール市民の映像が表示されたとき、Arisはふと違和感を覚えた。
調和? 感情が?
ノクティスでは逆だ。感情は個人を曇らせ、秩序を乱すとされている。喜びも怒りも、表に出すことは推奨されていない。過度な感情表現は“修正プログラム”の対象になることすらある。
けれど、画面の向こうにいる人々の目は、どこか柔らかく、そして……確かに“生きて”見えた。
そのとき、アリスはふいに背筋を正した。
今、自分が何を思っていた?
感情に「触れていた」?
これは、許される思考なのか?
ノクティスでは、思考すら定義されている。
共有すべきこと、記録に残すべきこと、価値があると認められた問いだけが、情報として扱われる。
それ以外は“雑音”とされる──つまり、個人の頭の中に留めておくべきノイズ。
けれどその「ノイズ」が、今の彼女の内部に、確かに生まれていた。
ソリヴァールの都市風景。笑い合う人々。誰かに寄り添うという動作の自然さ。
それらをただの“異文化”として片付けるには、あまりに胸に残るものが多すぎた。
──知ってはいけないのか。
──それとも、知ること自体が、何かを変えてしまうのか。
閲覧を終えると、端末は映像の履歴を即座に消去した。視線認証と記録終了のログが自動で残る。
個人の記憶以外に、あの映像は存在しない。
彼女の中にだけ、わずかな像が、音が、残った。
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