壁の内側
ノクティスの都市構造は、階層によって役割が明確に分けられている。
居住層は都市の中腹に集中しており、その上下に教育・供給・管理・研究といった各機能が積み重ねられている。
地上に広がる都市はもう存在しない。
ここでは横に歩くより、縦に移動する方が多い。廊下には鏡のような金属の壁が続き、方向感覚を失わせる。
それが“この都市の空気”だった。
Arisの足音だけが、廊下に響いていた。時間は昼に近いはずだが、外の光はない。壁に走るラインライトが温度の異なる白を灯し、昼と夜を演出している。けれど、その区切りは感覚的には曖昧だ。
目に映るもののすべてに意味がある。無駄がない。けれど、意味しかない場所には、どこか「生きている」という実感が欠ける。
それが間違っていると思ったことはない。ただ、何かを“感じそうになる”瞬間を、Arisはいつも無意識に打ち消してきた。
幼い頃からそうだった。
感情は、非効率を生む。過度な自己主張は、都市の安定を損なう。
教育ではそう教えられ、訓練でもそれを実践させられてきた。実際、感情的な言動を取る子どもは評価を下げられ、進路の選択肢は減っていく。
他者と協調すること。決められた手順を守ること。
そして、不要な思考は持たないこと。
それが“この国の正しさ”であり、Arisはそれを、何よりも大切な軸としてきた。
けれど──最近、ごく小さな“ひっかかり”を感じることが増えていた。
隣室の住人、Noaが夜中にわずかに泣いていたこと。何も聞かなかったふりをするべきだと理解していたけれど、その音はしばらく耳に残った。
朝、彼女の目元が少し赤かった。会話はしなかった。会話が許可されていない時間だった。
そのまま1日が過ぎて、翌朝には何事もなかったようにNoaは目を合わせた。彼女の中では、もうそれは“無かったこと”になっていた。
それが正しいはずなのに──なぜかArisの胸には、小さな痛みが残った。
許されている行動だけを選び、許されている範囲の思考だけを使う。
そのことに、今まで何の疑問も抱かなかったはずなのに。
エレベーターの中で、ふと自分の指先に力が入っていることに気づいた。拳を握っていた。なぜか。理由はわからなかった。
壁は、都市の外にだけあるわけじゃない。
自分の中にも、触れてはいけない何かを遮るように、静かに立ち塞がっている。
Arisはそれを「壁」だとは、まだ呼べずにいた。
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