沈んだ都市の呼吸
この都市には風がない。
花の匂いも、木の葉の揺れる音もない。
その代わり、静かな機械音が絶えず耳の奥に残る。冷却層から吹き上げる空調の低い唸りと、空間を循環するフィルターの微振動。
それが、ノクティスという都市の「呼吸」だった。
地熱を利用した発電と、人工照明による昼夜の再現。食料は合成培養された植物と、細胞由来のタンパク源。空気と水は、何十段にも重ねられた浄化層を通じて再利用される。
完璧に管理された環境。そこに自然の余地はない。
アリスは、そんな都市に疑問を持ったことがなかった。
住居ユニットの中は、すべて同じ形状で、同じ機能を持つ。装飾はなく、壁の色は淡い灰。寝具は一定の硬さに保たれ、体圧センサーが質の悪い睡眠を感知すれば、翌日のスケジュールが微調整される。
すべては「最適化」のため。
個人の好みや選択は、不要だった。
朝食は、昨日と同じ配給メニューだった。
栄養素と摂取カロリーは、年齢と業務内容に応じて割り当てられている。味は──薄い。だが不満はなかった。不満を感じるということ自体が、非効率の始まりなのだ。
居住層から出ると、廊下は白い光で照らされていた。天井にある光源は、時間帯に応じて色温度が調整される。人工太陽の代用品。誰もそれを「太陽」とは呼ばない。
アリスは足を運びながら、エレベーターに乗った。行き先は供給層。居住ユニット内のモジュールに不具合が出たという報告があり、確認を依頼されていた。こうしたタスクは外交任務の合間に割り当てられることが多い。
都市は縦に積み重なっている。
地下深くに降りるごとに、空気の密度が変わる。温度と湿度がわずかに上がり、服の内側に重さを感じた。
供給層では、栽培プラントが静かに稼働していた。暗緑色の光に照らされて育つ葉菜、透明な培養槽の中で増殖するタンパク組織。作業者は無言で機器を確認し、数値を記録していた。
ノクティスの「暮らし」は、こうして保たれている。
けれどその呼吸が、少しずつ浅くなっていることを、アリスは薄々感じていた。
配給の量が、わずかずつ減っている。水の質も、風の音も、何かがほんの少しずつ“狂い始めている”。
都市が限界に近づいている。
誰もそう口にはしないが、薄暗い都市の底で、その空気だけは確かに変わり始めていた。
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