第4話:戦場の華、筋肉の咆哮
信長からの朝倉攻めの命は、浅井家を二つに引き裂いた。
「義を通せ!」
古くからの盟友である朝倉家を守ろうとする家臣たち。その声には、浅井家が築き上げてきた歴史と、武士としての誇りが凝縮されていた。
「浅井家を存続させよ!」
信長の力に屈し、織田家との同盟を維持しようとする家臣たち。彼らの声には、現実的な焦燥と、信長という圧倒的な力への畏怖がにじみ出ていた。
長政は、そのどちらの意見にも耳を傾けることができなかった。彼の胸中には、お市の言葉と、信長への不信感が渦巻いていた。長政の葛藤は、やがて浅井家全体を巻き込む「分裂」へと変わっていく。
その日の夜、お市は静かに長政の元を訪れた。
「長政様、浅井家を守るために、私がすべきことは何でしょうか?」
お市の澄んだ瞳は、長政の心の迷いを映し出す鏡のようだった。長政は、妻の言葉に、自身の心の弱さを恥じた。
「……信長様を裏切る。それが、わしの決断だ」
長政は、震える声で告げた。彼は、義を選んだ。浅井家の存続よりも、朝倉家との絆を優先した。それは、長政が武将として、人として、譲れない「価値観」だった。お市が腕相撲で彼の机を砕いたあの日から、長政は己の信念を自問自答し続けてきた。その答えが、今、この言葉として紡ぎ出されたのだ。
「承知いたしました」
お市は、ただ一言、そう答えた。その言葉には、長政の決断に対する非難も、悲しみもなかった。ただ、夫の決意を尊重する、妻としての静かな覚悟が込められていた。お市は、長政の決断が、浅井家の悲劇へと繋がる可能性を理解していた。しかし、彼女の心は揺るがなかった。なぜなら、彼女にとって、夫の信念こそが、守るべき最大の宝だったからだ。
翌日、小谷城に信長包囲網が敷かれた。
織田軍の先陣は、荒々しい殺気を放つ森長可率いる部隊だった。長政は、城門の上から、かつて自分に力を示した男の姿を見て、静かに唇を噛みしめた。あの時、お市は長可を打ち破った。しかし、今、お市が立ち向かうのは、長可一人ではない。信長という、天下を狙う巨大な力だ。
「全軍、突撃!」
長可の号令と共に、織田軍の兵士たちが、まるで津波のように押し寄せてくる。その中には、長政の心を揺さぶる、もう一人の男の姿があった。
織田軍の兵士たちが、火縄銃を構える。轟音と共に、鉛玉が、小谷城の城壁めがけて飛んできた。
「撃てェェェエエエ!!!」
長可の咆哮が響き渡る。その時だった。
城門の上に立つお市は、静かに、しかし確かな動作で、甲冑の胸当てを外した。彼女の身体は、鍛錬によって、鋼のように隆起した筋肉に覆われていた。
「お市殿!?」
長政が、驚愕の声を上げる。お市は、そんな長政に、振り返ることもなく、静かに、しかし、戦場全体に響き渡る声で言った。
「私の筋肉は、あなたを守るためにあります」
お市は、飛来する鉛玉を、まるで迎え撃つかのように、大きく胸を張った。
ダアアァン!
火縄銃の一発目が放たれる。その鉛玉は、まるでスローモーションのように、お市の胸元へと飛んでいく。お市の瞳には、鉛玉の軌道と、それを生み出した火薬の燃焼が、克明に映し出されていた。
グンッ!
彼女の大胸筋が、着弾の瞬間に、まるで鋼鉄の盾のように隆起する。
鉛玉は、お市を貫通することなく、弾かれたゴム毬のように、鈍い音を立てて跳ね返った。
ダアアァン! ダアアァン!
二発目、三発目と、次々と放たれる鉛玉。その度に、お市の大胸筋は、まるで生き物のようにうねり、鉛玉を弾き返していく。
カラン、カラン……。
硬質な金属が石畳を転がる音が、火薬の匂いが立ち込める戦場に響き渡る。
長可は、その光景を呆然と見つめていた。彼の脳裏には、先日の模擬戦で、お市に投げ飛ばされた記憶が蘇る。あの時の恐怖が、今、再び蘇ってきた。
(あれは…やはり、人の力じゃねえ。姫じゃねえ…神か、鬼か…いや、これは、美しき化け物だ)
長可のモノローグが、読者の驚きと恐怖を代弁する。彼の顔に浮かんだのは、敗北の悔しさではなかった。それは、圧倒的な力への、純粋な畏敬の念だった。
だが、お市の胸には、傷一つついていなかった。その肉体は、長政が毎朝見ていた、ただの鍛錬の成果ではなかった。それは、夫を守るという、彼女の揺るぎない信念が、形となって現れたものだった。
火縄銃という、当時の最新兵器が、一人の人間の「筋肉」によって無効化されるという、常識を覆す光景。織田軍の兵士たちは、完全に戦意を喪失した。
信長包囲網は、お市の筋肉という名の「防壁」によって、その勢いを失い始めた。
「女の力で、この乱世は変えられる!」
お市は、天を衝くかのように片腕を掲げ、そう叫んだ。その姿は、可憐な姫君から、夫と浅井家を守る、真の女傑へと変貌を遂げていた。彼女の叫びは、夫の決断を正し、浅井家の兵士たちに、新たな希望と勇気を与えた。
長政は、城門の上から、その姿をただ見つめていた。彼の目には、以前のような迷いや苦悩はなかった。あったのは、妻への畏敬と、彼女の強さを支える自分の信念への確信だった。
二人の夫婦は、悲劇的な運命を、筋肉という名の力と信念で、打ち破ろうとしていた。
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