第3話:浅井家の苦悩、裏切りの予兆

浅井家当主としての権威を粉々に砕かれたあの日以来、浅井長政は変わった。


毎朝、お市と共に、城の庭で鍛錬に励むようになったのだ。以前は剣術の稽古しかしていなかった長政が、今や黙々と腹筋や背筋を鍛え上げ、全身の筋肉と向き合うようになっていた。


初めは反発していた家臣たちも、長政の真剣な眼差しと、お市の異様なまでの力強さを目の当たりにし、次第に鍛錬に参加し始める。


「姫様、その……腹筋運動とは、いかがなものかと」


ある家臣が、恥ずかしそうに尋ねる。お市は静かに、しかし流れるような動作で腹筋運動をこなしながら、こう答えた。


「腹は、人の要。ここが定まらねば、心も定まりませぬ」


その言葉は、長政の心にも深く響いた。彼は、お市の言葉の裏に、自分の心が揺れ動いていることを見抜かれているような気がした。


浅井家は、織田家と同盟を結びながらも、朝倉家とも古くから深い絆で結ばれていた。信長が朝倉家を攻めようとしている今、長政の心は、二つの選択肢の間で激しく揺れ動いていた。


「信長様は、朝倉家を攻めるおつもりだ。だが、朝倉家は、我ら浅井家の盟友。義を通せば、信長様を裏切ることになる。しかし、信長様に逆らえば、浅井家は滅びる…」


長政の苦悩は、日に日に深まっていった。その様子を、お市は黙って見つめていた。彼女の心には、長政の苦悩が、やがて浅井家全体を飲み込む「悲劇の予兆」として、ひしひしと伝わってきていた。


その日の夜、お市は長政の部屋を訪れた。


「長政様、その胸の内、お聞かせくださいませ」


長政は、お市の澄んだ瞳を前に、言葉を詰まらせた。彼は、妻に弱みを見せたくなかった。しかし、同時に、この姫君ならば、自分の苦悩を理解してくれるかもしれないという、かすかな期待も抱いていた。


「お市殿……わしは、どうすればよいのだ?」


長政の言葉は、悲痛な叫びにも似ていた。お市は、そんな長政の姿を前に、静かに、しかし確かな動作で、彼の腕を掴んだ。


長政の腕は、鍛錬によって、以前よりも遥かに強靭になっていた。だが、お市の手に掴まれた瞬間、その強靭な腕は、まるで震えているかのように感じた。それは、物理的な力ではなく、お市が持つ「信念の力」に、長政の迷いが揺さぶられている証拠だった。


「長政様、腹の奥から、もう一度お考えください」


お市の言葉と共に、彼女の腕の筋肉が、まるで雷鳴のように隆起する。長政の胸に、お市が発する「力」の威圧感と、彼女の言葉が持つ「信念」の重みが同時に押し寄せた。


それは、長政が抱えていた、浅井家当主としてのプライドと、信長への従属という、二つの相反する感情を、一瞬で分裂させるほどの力だった。


「わしは……」


長政の口から、言葉が漏れそうになった、その時だった。


ゴトッ……ゴトッ……。


廊下の板が、重く、鈍い音を立ててきしむ。湿った風と共に、一人の使者が息を切らせて駆け込んできた。その使者が放つ、張り詰めた空気と火薬の匂いが、長政の五感を一気に支配する。


「殿! 信長様より、朝倉攻めの命が下されました!」


使者の口が動くたび、卓上の灯明の炎が揺れ、長政の影が壁の上で引き裂かれるように伸び縮みした。


長政は、その光景をただ見つめていた。信長からの命令が、長政の胸中で燻っていた「火種」に、油を注ぐようなものだった。長政の顔に、諦めと、そして怒りにも似た感情が浮かぶ。信長は、長政の苦悩を知りながら、あえて、このタイミングで命を下したのだ。


長政は、その夜、一睡もできなかった。天守閣から見える、琵琶湖の穏やかな水面が、まるで自分の心の平穏を嘲笑っているかのようだった。彼は、お市の言葉を思い出していた。


「腹の奥から、もう一度お考えください」


長政は、己の腹に手を当てた。そこには、日々の鍛錬で硬くなった、確かな筋肉があった。しかし、その筋肉は、彼が抱える心の葛藤を、解決してくれるわけではなかった。


「義を通すか、浅井家を守るか…」


長政の心の中で、「信長への不信」という感情が、まるで火種のように燃え上がっているのが分かった。それは、信長が、長政の心を理解しようとせず、ただ力で従わせようとしているという、長政の「価値観」への挑戦だった。


その火種は、やがて信長包囲網という、巨大な炎へと変わっていく、悲劇の始まりだった。


お市は、その全てを静かに見守っていた。彼女の目には、長政の葛藤と、それに伴う浅井家の行く末が、まるで霞がかった絵のように見えていた。


「このままでは、長政様は……」


お市は、静かに、しかし確かな決意を胸に、自室へと戻った。


信長包囲網という嵐が、いよいよ小谷城へと迫りつつあった。お市は、ただ政略の駒として生きることを拒絶し、自らの筋肉で運命を切り開くことを選んだ。彼女の心には、「長政様を守る」という、新たな行動の必然性が、強く芽生えていた。

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