第2話:決意の嫁入り、筋肉の持参金

森一家との模擬戦から数日後、お市のもとに、兄・信長からの正式な知らせが届いた。


「浅井長政との、婚姻を望む」


政略結婚という、武家の姫としての宿命。お市は静かにそれを受け入れた。しかし、彼女の心に一片の不安もなかった。なぜなら、自分には誰にも奪えない、唯一の「持参金」があったからだ。


婚礼の準備は着々と進み、長持には豪華な着物や調度品が詰め込まれていく。その中に、お市は人知れず、重厚な鉄の塊を忍ばせた。井戸水を汲む日々の中で自作した、特製のバーベル。それは、彼女の決意そのものだった。嫁ぎ先で、自分の人生を誰にも委ねないという、彼女の価値観の結晶だった。


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琵琶湖のほとりにある小谷城。新しい居城に着いたお市を、夫となる浅井長政が出迎えた。


噂に違わぬ美貌の姫君を前に、長政は心を奪われる。その透き通るような白い肌、恥じらいを含んだ伏し目がちな視線。しかし、長政は、その可憐な外見の奥に、何か底知れぬものを感じ取っていた。それは、森長可が信長への報告で語った「姫じゃねえ、城を壊す生き物だ」という言葉からくる、得体の知れない畏怖だった。


その日の夜、二人の間に交わされたのは、言葉ではなく、腕相撲だった。


「お市殿の腕は、さぞかし柔らかかろう」


そう言って、長政は優しく、しかし確かな力で、お市の右手を握った。お市は静かに微笑み、彼の手を握り返す。長政は、そのあまりの柔らかさに、ますます心をときめかせる。だが、その手から伝わる感触は、ただの柔らかさではなかった。まるで、水面下で蠢く巨大な魚のような、しなやかで、しかし予測不能な力強さの予兆が秘められていた。


「いくぞ」


長政が、不敵な笑みと共に力を込めた。彼の腕は、日々の鍛錬で鍛え上げられた、武将の腕だった。お市の腕は、みるみるうちに押し込まれていく。長政の脳内には、「やはり、ただの姫君か」という安堵と、かすかな失望が同時に浮かんだ。


だが、その瞬間だった。


お市の瞳から、先ほどの柔和な光が消え、まるで鋼の刃のような、鋭い光が宿った。


「フンッ!」


彼女が、喉の奥から絞り出すような低い声と共に、腰を入れた。その小さな身体から放たれる力は、長政の想像を遥かに超えていた。


「な……!?」


長政の腕が、びくりと震えた。床に置かれた机が「ミシミシ」と音を立て、二人の間を隔てる空気が一気に張り詰める。お市の腕は、もはや押し込まれるどころか、長政の腕を、まるで巨木を押し倒すかのように、ゆっくりと、しかし確実に押し返していく。


長政の腕の血管が浮き上がり、筋繊維が悲鳴を上げる。お市の腕は、一見華奢なままだが、その内部で筋繊維が爆発的に収縮しているのが、長政にはありありと見えた。


「ギィィィンッ!」


長政の右腕を支えていた机が、音を立てて砕け散った。砕けた木片が、二人の足元に散らばる。長政の顔に、驚愕と、そして拭いきれない恐怖の色が浮かぶ。


「姫、殿は……」


側近の兵士が、慌てて長政を助けようとするが、長政はそれを手で制した。


「ま……待て」


長政の腕は、お市によって完全に固定されていた。その力は、武将としてのプライドを粉々に打ち砕くほどの、圧倒的な暴力だった。しかし、長政は、その暴力の中に、不思議と不快感を感じていなかった。むしろ、「これが、森長可が敗れた力か」という、新たな探求心に心を支配され始めていた。


お市は、何事もなかったかのように微笑んだ。


「これにて、勝負ありにございます」


長政は、敗北の絶望と、目の前の可憐な姫に対する畏怖と、そして底知れぬ興味を同時に感じていた。この日から、浅井家における夫婦の力関係は、言葉ではなく、筋肉という共通言語によって決定づけられたのだった。


長政は、壊れた机をじっと見つめていた。その机は、浅井家当主としての彼の権威を象徴していた。しかし、今、その権威は、一人の可憐な少女の「筋肉」によって、粉々に砕け散った。


その光景を前に、長政の心に、ある思考が芽生えた。


「この力があれば、信長の野望すらも覆せるのではないか?」


お市は、長政のその心の変化に気づいていた。彼女は、静かに、しかし確かな目線で長政を見つめた。


「私の筋肉は、あなたを守るためにあります」


お市のその言葉は、長政の心に、深い安堵と信頼をもたらした。政略結婚という冷たい関係から始まった二人の間に、新たな夫婦の絆が、静かに、しかし確かに生まれ始めていた。


その日の夜。


長政は自室に戻ると、すぐに側近を呼び出した。


「お市殿の力、そなたも見たであろう。あれを、浅井家の兵に組み込むことはできぬか?」


「は……? 殿、まさか、姫様の鍛錬法を兵に?」


側近の兵士が、驚きに目を丸くする。しかし、長政の目は真剣だった。


「信長が恐れるほどの力だ。もし、浅井家の兵が皆、あの姫と同じ力を手に入れれば……」


長政の言葉は、そこで途切れた。彼の脳裏には、お市の鍛え抜かれた上腕二頭筋と、砕け散った机の光景が、鮮明に焼き付いていた。


その頃、お市の部屋では、彼女が静かに、婚礼道具の中に隠しておいた特製のバーベルを手に取っていた。


「私の筋肉は、あなたを守るためにあります」


長政に告げたその言葉を反芻しながら、お市は、冷たい鉄の感触を確かめるように、ゆっくりとバーベルを持ち上げた。


「そして、この力は、浅井家の未来をも守るために」


窓の外には、信長包囲網という嵐の予兆が、静かに迫っていた。お市は、来るべき戦いに備え、再び、孤独な鍛錬を始めるのだった。

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