戦国マッスル無双~お市編~【ショート版】

五平

第1話:美貌の姫、筋肉に目覚める

美濃の小谷城には、朝露に濡れた花にも似た、可憐な姫君がいた。名は、お市。だが、その袖の下には、誰も知らぬ硬鋼のような筋肉が潜んでいた。


艶やかな黒髪は、風になびくたびに淡い香りを放ち、雪のように白い肌は、日の光を浴びて淡く輝く。その完璧な美貌は、織田家の姫として、京の都でも評判になっていた。


だが、誰も知らない。


この可憐な姫君が、夜な夜なひっそりと、己の肉体と向き合っていることを。


井戸水を汲む水桶。その重みに、華奢な腕が微かに震える。しかし、お市は決して楽な方法を選ばなかった。満杯にした水桶を両手に抱え、あえて城の裏道を何往復もする。息を整え、胸郭を広げ、ゆっくりと歩を進めるたびに、上腕二頭筋と大腿四頭筋が、静かに、しかし確実に形を変えていくのを感じた。


「この身体が、私の唯一の武器」


誰にも知られず、誰にも頼らず、自らの手で運命を切り開く。その思いが、お市を突き動かす唯一の価値観だった。


---


その日の昼過ぎ、城に二人の見慣れない男がやってきた。兄・信長からの使者だという。


一人は、鬼武蔵と称される荒々しい男、森長可。もう一人は、兄に仕える美少年、森蘭丸。


長可の殺気に満ちた眼差しは、挨拶もそこそこに、お市に向けられた。「この乱世では、いくら美しかろうと、力なき者は駒に過ぎませぬ」その言葉に、お市の心の奥底で、何かがチクリと刺さった。


お市は、静かに薙刀を構えた。


「お手合わせ、光栄に存じます」


その声は、鈴の音のように可憐だった。


長可は、嘲るような笑みを浮かべた。女子供を相手にするのは気が進まない。だが、兄の命だ。


「無礼講!」


長可が、大長槍を低く構え、渾身の力で突き出した。空気を切り裂くような轟音が響き、お市の顔に砂埃が巻き上がる。薙刀を構えるお市は、しかし微動だにしなかった。


その瞳は、長可の槍の軌道と、その奥にある筋肉の動きを正確に捉えていた。


次の瞬間、お市は左手をスッと伸ばし、飛来する槍の穂先を、まるで小枝でも掴むかのように、片手で握りしめた。


ゴギィィィィン!


硬質な音が響き、槍の柄が悲鳴を上げる。お市の袖の下から、信じられないほど隆起した上腕二頭筋の筋繊維が、生き物のようにうねるのが見えた。彼女が踏み込んだ地面の石畳は、「バキッ!」という音を立てて砕け散った。


長可は、自分の放った一撃が、まさかこんなにもあっさりと止められるとは夢にも思っていなかった。彼の顔に、困惑と驚愕が入り混じった表情が浮かぶ。


「おぬし、重い槍を持つ割には、身体は軽いのだな」


お市は、静かにそう呟いた。


彼女は、槍を握る長可の腕を引き寄せながら、もう一方の腕で、その胴を掴んだ。そして、「フンッ!」と息を吐き、腰を入れると、鬼武蔵と恐れられる長可の巨体を、まるで米俵でも持ち上げるかのように、軽々と持ち上げたのだ。


「うおおおおおっ!?」


周囲で見ていた兵士たちの間に、どよめきが響き渡る。長可は、自分の体が宙に浮いていることを理解できず、ただ呆然と空を仰いでいた。


(姫じゃねえ…これは、城を壊す生き物だ…!)


長可の心の声が、読者の驚きを代弁する。お市は、無感情な表情で長可を地面にドスンと置き、何事もなかったかのように袖で汗を拭った。


「…強ぇ」


長可が、ようやく息を整え、絞り出すように呟いた。


その様子を一部始終見ていた蘭丸は、目を大きく見開き、信長に匹敵する「怪物」が、兄の身近にいたことを悟り、その脳内ログに刻み込んだ。


お市は、二人に深々と頭を下げた。


「本日は、お手合わせいただき、ありがとうございました」


そして、静かに背を向け、去っていく。


その華奢な背中は、どこか寂しげに見えた。


だが、お市の胸には、まだ見ぬ強敵との戦いに向けた、熱い血潮が満ち始めていた。


「まだまだ……鍛えるわ」


その声は、誰に聞かせるわけでもなく、ただ静かに、彼女の心の中で響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る