第5話:夫婦の決断、筋肉の道

小谷城の城壁に、勝利の歓声が響き渡っていた。


「女傑様、万歳!」


「お市様のおかげで、我らは救われた!」


浅井家の兵士たちは、興奮に満ちた声で、お市の名を叫んでいた。火縄銃の弾丸を胸筋で弾き返したお市の姿は、彼らにとって、もはや畏敬の念を抱く対象となっていた。彼らの心には、お市の強さに対する「絶対的な信頼」が深く刻み込まれていた。


長政は、城門の上から、その光景をただ見つめていた。彼の胸には、勝利の喜びと、妻に対する底知れぬ誇りが満ちていた。しかし、その一方で、冷徹な現実が、彼の心を締め付けていた。


(お市の力は、織田軍を一時的に退けたに過ぎぬ…信長は、この程度のことで諦める男ではない)


長政の脳裏には、信長の冷酷なまでの合理性と、圧倒的な軍事力が焼き付いていた。信長が本気になれば、浅井家など、ひとたまりもないだろう。勝利の余韻が冷め、現実という氷のような恐怖が、彼の心を蝕んでいく。


その日の夜、お市は長政の部屋を訪れた。


長政は、黙って酒を飲んでいた。その手は、震えていた。武将としてのプライドと、愛する家族を守りたいという、二つの感情が、彼の心の中で激しくぶつかり合っていた。


「お市殿……わしは、どうすればよいのだ?」


長政は、再び、妻に弱音を吐いた。彼の心は、勝利の興奮から一転、絶望の淵に立たされていた。その声は、一国の主とは思えぬほど弱々しく、頼りないものだった。


お市は、そんな長政の隣に静かに座ると、そっと、その手に触れた。


「長政様、私の筋肉は、あなたを守るためにあります。しかし、この力は、あなたを守るためだけのものではありません」


お市は、そう言うと、持参した特製のバーベルを、長政の目の前に置いた。


「この力は、浅井家を守るために。そして、この乱世を生き抜くために、あるのです」


お市は、長政の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、迷いも、怯えもなかった。あったのは、夫と共に生き抜くという、揺るぎない決意だけだった。


「長政様、戦うことだけが、生き抜く道ではありません」


お市の言葉に、長政は驚きに目を見開いた。


「では、どうすれば……」


長政の言葉には、次なる戦術を期待する色が満ちていた。お市がまた、信長を驚かせるような奇策を授けてくれると信じていたのだ。しかし、お市から返ってきたのは、全く予想外の言葉だった。


「逃げましょう」


その一言が、長政の脳裏で描いていた「次なる戦」の構想を、一瞬にして打ち砕いた。


長政は、お市の言葉を、ただ呆然と聞いていた。小谷城は、浅井家の当主としての彼の誇りだった。その誇りを捨てて、逃げろというのか。


長政の心に、激しい怒りがこみ上げてきた。


(逃げるだと…?それが、武将としての道か!)


長政の腕の筋肉が、怒りによって隆起する。しかし、お市は、そんな長政の腕を、そっと、しかし確かな力で抑え込んだ。


「長政様、武士としての誇りも、生き抜いてこそ意味があります」


お市の言葉は、長政の怒りを、まるで冷たい水で冷やすかのように、静めていった。


長政は、お市の瞳を再び見つめた。その瞳には、武士としての誇りを捨てた自分を軽蔑するような色は、微塵もなかった。あったのは、ただ、夫を信じ、共に生き抜こうとする、妻としての深い愛情だった。


長政は、お市が持参したバーベルに手を伸ばした。冷たい鉄の重みが、手のひらにずしりとくる。それは、お市が示そうとしている新たな価値観の重さだった。


長政は、静かに、しかし確かな動作で、そのバーベルを持ち上げた。彼の筋肉が悲鳴を上げる。それは、武将としてのプライドを捨て、妻と共に生き抜く道を選んだ、彼の決意の表れだった。


「わしも、あなたと共に……」


長政の決断は、浅井家の運命を、新たな方向へと導いていく。信長包囲網という嵐の中で、二人の夫婦は、自らの筋肉と知略で、生き抜くことを選んだのだ。


お市は、長政の決意を目の当たりにし、静かに頷いた。彼女の心には、長政と共に歩む未来への確信が満ちていた。


「わたくしにお任せください。この小谷城を、信長様に譲るわけにはいきません」


お市の言葉に、長政は再び驚きに目を見開く。


「では、どうするのだ?」


「この城の守りを、筋肉の力で、さらに強化いたします」


お市は、そう言うと、笑顔を見せた。その笑顔は、可憐な姫君のものではなく、夫を守るためなら、どんな困難にも立ち向かう、女傑の笑顔だった。


「まず、門扉の裏側に、大岩を運ぶための滑車を設置させます。そして、城壁の石垣は……」


お市の瞳には、すでに次なる作戦が映し出されていた。


信長包囲網という嵐の中で、二人の夫婦は、自らの筋肉と知略で、生き抜くことを選んだ。


そして、彼らの前に立ちはだかる、信長という巨大な力に、新たな挑戦を仕掛けようとしていた。

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