ep20.side 鎖衣:別れ

 鎖衣が研究室のデスクで節奈の行方に繋がりそうな連絡先をリストアップしていると、入り口の引き戸が開いた。


 顔を上げると、マゼンタが立っていた。

 目は泣き腫らし、赤くなっている。


 鎖衣に向かって歩いたが、その足元はひどくおぼつかなかった。


「マゼンタ、どうした」

「鎖衣……私、伝えたいことが」


 鎖衣は急いで立ち上がり、ふらつくマゼンタを抱き止めた。

 胸に顔をうずめたマゼンタが、ゆっくりと息をつく。


「鎖衣。怒らないで、聞いてくれる?」


 声にはハリがなく、ため息のような囁きだった。


「何があったんだ?」


 マゼンタは、ゆっくりと呟いた。


「お腹に、子供がいるの」

「えっ」


 突然の告白に理解が及ばず、鎖衣は呆然とする。


「……誰の」

「鎖衣の。人工受精で」


 ザァッ、と頭から血の気が引いた。


 福成との会話が甦る。

 クローンを母体に……あれを、実行してしまったのか。


「私たちのエラー修復の、一番の近道だから。シアンの命もかかってるから」


 それは理解しているが、やっていいことだとは思えない。

 クローン実験の時点で倫理観は置いてきたのかもしれないが……マゼンタは、不完全な体を抱えた未成年だぞ!


「恋がしたかったの。相手にされたかった。お母さんにもなってみたかった」


 胸がギュッと痛くなる。

 福成は、マゼンタが自分を慕っていると知りながら、その想いを利用したのか?


「着床成功して、嬉しかった。短い時間だけど、愛してあげようと思った。でもこの子は、生きられないのが前提の子で」


 マゼンタは腹部を押さえた。


「教授にも相談したけど、生かすのは絶対に無理だって」


 マゼンタは聡明だが、知識先行で生きてきた。

 妊娠がどれだけ命懸けか、命を宿すことにどれだけの責任が伴うか、想像がつかなかったのだろう。


「ごめんなさい。私、鎖衣の了承も得ずに」


 マゼンタは鎖衣の服にしがみついた。


「でも最後に、この子のこと……」


 その先の言葉は続かなかった。マゼンタはぐっと喉を鳴らし、顔を背けてうずくまる。ぼたぼたと黄色い液体が床に落ちた。

 胃液だ。吐くもののない胃から、内容物を絞り出している。


「マゼンタ!」


 鎖衣はデスクのティッシュ箱を掴み、マゼンタの側に屈み込んで体を支えた。

 抱き起こし、口元を拭いながらふと見ると、内腿を足元に向けて血液が伝っている。マゼンタが歩いた場所にも赤茶色の跡が続いていた。


 鎖衣は震えながらマゼンタに目を落とす。マゼンタの部屋からここまで、それなりに距離がある。ここに来るまでの間にどれだけ出血したのだろうか。


「マゼンタ、しっかりしろ!」


 マゼンタはうつろな目で鎖衣の視線に応え、そのまま体が弛緩しかんした。



***



 マゼンタの急変を聞いた福成は、即座に手術の指示を出した。


 機材の用意をしながら、鎖衣は福成の準備しているものに気づいて目をつり上げた。


「何をやってるんですか!」


 福成は冷凍保存の準備をしていた。


「マゼンタの状態は一刻を争うんですよ!」

「摘出したものを保存しなければ、マゼンタの覚悟が無駄になる」

「覚悟って何だよ。そんなものいいから助けろよ!」


 福成は鎖衣を押し退けた。


「冷静でいられないなら近づくな」

「は?」

「そんな震えた手で処置をされては、助かるものも助からない」


 鎖衣は自分の手を見た。ぶるぶると震えている。

 必死で深呼吸をしたが、震えはおさまらない。

 何もかもが悪夢のようだった。


 福成はテキパキと処置を進めている。

 ベッドから垂れたマゼンタの手がぴくりと動いた。鎖衣はその手を取った。


「マゼンタ」


 呼びかけると、指先が鎖衣の手を握り返した。


「マゼンタ……」


 顔を覗き込むと、マゼンタの頬に涙が落ちた。ぽつりぽつりと降っているのは、鎖衣の涙だ。マゼンタのまぶたが震え、うっすらと目が開く。

 マゼンタの視線は鎖衣の上で止まり、目尻から涙がこぼれた。


 マゼンタの声はかすれて言葉にならず、ごめん、と口が動いた。鎖衣は首を振る。


「何でもいいから生きてくれ」


 マゼンタの口がしあん、と動く。


「大丈夫だ、シアンのことは心配するな」


 マゼンタの目が虚ろになり、福成が切迫した声を上げた。


「鎖衣、マゼンタに声をかけろ!」

「マゼンタ!」


 閉じようとしたマゼンタの目が開く。


「置いて行くな」


 手のひらでマゼンタの前髪をかきあげ、頬を撫でた。汗が滲んでしっとりした肌は、やわらかく温かい。

 込み上げるものが口を突いて出た。


「君が好きだ」


 マゼンタが安心して過ごすため、表に出してはいけない感情だと思っていた。

 でももう、何も繕えない。


 マゼンタの目に驚いたような光が宿り、鎖衣に焦点が合った。


「君は俺の生きる意味なんだ。いなくならないでくれ」


 恥も体面もなく、泣きながら懇願する。

 クローン研究に反発を感じながらも迷わずこの道に進んだのは、親の遺志でも福成の恩でもない。マゼンタがいたからだ。

 明るく咲く彼女が懸命に生きていたから、支えになりたかった。

 遺伝子提供し、猛勉強し、研究のため親友とも距離を置き、彼女が生き続ける道を探した。


 それなのに、提供した生殖サンプルがこんな形で使われてしまうなんて。


 マゼンタの口元が微笑み、さい、と動いた。その後の動きは、みてる、だろうか。


「ああ、見ててくれ。ずっとそばにいてくれ!」


 マゼンタの目尻から涙が溢れては伝う。その流れはやがてゆっくりになり、止まった。


 鎖衣の記憶は、そこで途切れた。



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