第5話【第4章 しるしの再来】

潮風が、夏の終わりを告げていた。


 定年を迎えた主人公は、再び、あの浜辺へと足を運んだ。

 記憶の中にだけ残っていたはずの場所。けれど、足元の砂の感触も、波音も、かつてと同じだった。


 「……変わってないな」


 そう呟いた声は、風にさらわれて消えた。


 少し歩くと、薄い霧が海岸を包み始めた。

 波の音は遠のき、世界がゆっくりと沈黙に包まれていくような感覚。


 視界の端で、何かがきらめいた。


 ふらっと、足を滑らせる──


 「うわっ──」


 乾いた砂の斜面が崩れ、主人公はバランスを崩して倒れそうになった。

 とっさに岩に手をついたが、胸の奥に微かな恐怖がよぎる。


 ──そのときだった。


 「……クゥ」


 遠く、どこからか聞こえた声。

 まるで、水の奥底から湧き上がるような──懐かしい音。


 はっとして顔を上げる。


 霧の向こう、水面に、淡い青い光が揺れていた。

 まるで、海そのものが呼吸しているかのように。


 目を凝らすと、微かに見えた。

 それは、あの頃と同じ──青い背びれ、滑らかな光沢、そして、あの優しい眼差し。


 「……クゥ……なのか?」


 主人公が呟いた瞬間、霧が風に吹かれて動いた。

 海が一瞬だけ、鏡のように静まり返る。


 その刹那──青い影が、こちらに向かって、ひとまわり、弧を描いた。


 まるで、“もう一度、忘れないで”と伝えるように。


 主人公は、胸の奥でなにかがほどけるのを感じた。


 だが、次の瞬間、霧が再び濃くなり、影はその中へと溶けていった。


 ……波音だけが、残された。


     * * *


 しばらく、主人公は砂の上に座り込んだまま、何も言わずに空を見上げていた。


 「……幻、なのかもな」


 けれど、左手のひらが濡れていた。

 見れば、小さな青い鱗のようなものが、そっと貼りついていた。


 風が吹く。

 潮の香りとともに、どこかで──微かに、また声が聞こえた。


 「……クゥ」


 記憶でも、幻でもいい。

 あの“しるし”が、たしかに今、ここに再び現れたことだけは、何よりも確かな現実だった。


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